【第37週 ホッとひと休み】「自力の鎧」を脱ぎ捨て、キリストの「100%の恵み」で心を満たす週末

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【第37週 ホッとひと休み】「自力の鎧」を脱ぎ捨て、キリストの「100%の恵み」で心を満たす週末

第37週の聖書通読、本当にお疲れ様でした。
今週は、第一サムエル記から第二サムエル記への歴史的な転換点と、ヘブル人への手紙が語る「キリストの永遠の贖い」という、非常に濃密でダイナミックな箇所を読み進めてきました。
週末の今日は、少し歩みを止めて深呼吸をしましょう。温かい飲み物でも手に取りながら、今週神様が語りかけてくださった「圧倒的な恵み」の中に、ゆったりと心を休ませる時間を持てればと思います。

「自力の鎧」の限界と、手放すことの平安

今週の旧約聖書では、対照的な二人の姿が描かれました。
一人は、どこまでも「自分の力」で人生の王座を守ろうとしたサウル王です。彼は立派な体格と権力という「重い鎧」を着込んでいましたが、いざ絶望的な嵐がやってくると、神様に頼るのではなく、人間の知恵やオカルトにすがりつき、最後は悲惨な敗北の中でその生涯を閉じました。彼には、嵐の中で自分を支える「魂の錨(いかり)」がなかったのです。
もう一人は、ダビデです。ダビデもまた、恐れから敵国へ亡命するという失敗を犯し、ツィケラグの町で家族も財産もすべてを失うという「どん底」を経験しました。しかしダビデは、その絶望の灰の中で「自力の白旗」を揚げ、真っ直ぐに神様を見上げました。
さらに、長年の政敵であったサウル王が死んだ時、ダビデは歓喜して実権を奪いに行くのではなく、敵の死を深く悼み、神様の「青信号」が点灯するまでヘブロンで静かに待ちました。
「自分が裁かなければ」「自分が計画して道をこじ開けなければ」という自力のトランクと裁きの木槌を手放した時、ダビデは復讐心からも焦りからも解放され、澄み切った平安の中を歩むことができたのです。

天の王座に固定された「魂の錨」

私たちはどうでしょうか。「クリスチャンとしてもっと立派に生きなければ」と、無意識のうちに「死んだ行い」という重い鎧を着込み、日々の失敗に一喜一憂してはいないでしょうか。
ヘブル人への手紙は、そんな私たちに究極の安心感を宣言してくれました。
私たちの救いは、私たちがどれだけ立派に鎧を着こなせるか(信仰の行い)にはかかっていません。私たちの「魂の錨」は、揺れ動くこの世の状況や自分の感情の中ではなく、絶対に揺らぐことのない「天の王座」に、キリストの手によってガッチリと固定されているのです。
旧約時代の動物のいけにえは、罪の不安を根本から消し去ることのできない「仮の券」に過ぎませんでした。しかし、永遠の大祭司であるイエス・キリストは、ご自身の完全な血潮によって、ただ一度だけご自身を捧げ、私たちを「永遠に完全な者」としてくださいました。
更新手続きは一切不要です。私たちはすでに、天国への「永遠の完全なパスポート」を100%の恵みとして信仰によって受け取っているのです。

神様の形でしか埋まらない「心の穴」

フランスの思想家パスカルが「人間の心には、神によってしか満たされない空洞がある」と語ったように、私たちはしばしば、その心の穴を「自分の努力」や「世間の評価」「正しい行い」で埋めようと必死になります。しかし、それらでは決してパズルのピースは合いません。
私たちの心の穴は、最初から「キリストの十字架の恵み」という形にくり抜かれています。だからこそ、「私が彼らの罪を赦し、もはや思い起こさない」という神様の一方的な【新しい契約】だけが、その穴に寸分の狂いもなくピタリとはまるのです。
この週末、あなたがまだ握りしめている「自力でなんとかしようとする思い」や「自分を責める告発の声」があるなら、すべて大祭司であるイエス様の足元に置いてしまいましょう。
もう、あなたが自分で自分の身元を証明したり、罪を償ったりする必要はありません。永遠の身元保証人であるキリストが、「この人のすべての負債は、私がいのちの代価をもって支払いました」と、今この瞬間もあなたのために祈り、完全に守ってくださっています。
「もう戦わなくていい」「もう自分を飾らなくていい」という、見えない恵みを確信する「信仰の望遠鏡」を通して、圧倒的な神様の愛をたっぷりと味わう週末となりますように。恵みと安息に満ちた、素晴らしい「ホッとひと休み」をお過ごしください。

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