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【聖書通読 第23週1日目】契約の石と、神の主権的なあわれみ(申命記27章ローマ9章)
今日は、約束の地での祭壇の構築と、神の選びの奥義について学びます。人間の行いではなく、ただ神の主権的なあわれみによって救い出された恵みの深さを味わう一日です。
【旧約】申命記 27章
モーセは約束の地に入る民に対し、ヨルダン川を渡ってすぐ、大きな石を立ててみことばを記し、祭壇を築くように命じました。ここで非常に心を打つのは、その祭壇の作り方と場所です。
「そこにあなたの神、主のための祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。あなたは自然の石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。」(申命記 27:5-6)
「鉄の道具を当ててはならない」。つまり、人間がノミで美しく削って見栄えを良くした石を使ってはならないというのです。これは、私たちが神様の前に出るとき、自分の立派な行いや努力で「自分をよく見せようとする加工(人間の義)」は一切不要であり、ありのままの不完全な姿(自然の石)で来なさいという、深い恵みのメッセージです。
さらに、この祭壇が築かれた「エバル山」は、後にレビ人が「のろいの言葉」を大声で宣言する山でした。隠れた罪や、目の見えない者を道に迷わせるなどの弱者を虐げる罪に対し、民は「アーメン(その通りです)」と応答します。自分の罪を認め、「のろわれて当然の場所」にこそ、神様との和解のいけにえ(キリストの十字架のひな型)の祭壇が築かれるのです。私たちの罪の真っただ中に十字架が立てられるという、圧倒的な恵みがここに描かれています。
【新約】ローマ人への手紙 9章
ローマ人への手紙9章は、パウロの張り裂けそうなほどの悲痛な叫びから始まります。
「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(ローマ 9:3)
パウロは、イエス様を拒絶して滅びに向かう同胞ユダヤ人を思い、自分が地獄に落ちてでも彼らを救いたいと涙を流しました。この他者のために自分がのろいを受けたいという究極の愛は、まさに十字架上のキリストの心をそのまま映し出しています。
しかしパウロは、救いが人間の血筋や努力で決まるのではないという「神の主権的な選び」の奥義へと話を展開します。
「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ 9:16)
ある世界的に有名な陶芸家の工房でのエピソードです。弟子たちは、先生が次に創る特別な器のために、不純物が一切混じっていない最高級の極上の粘土を各地から探し求めてきました。「先生、この土はこれほど高価で優れています」「こちらの方が滑らかで美しい器になります」と、それぞれ素材の良さをアピールしました。 しかし巨匠はそれらには目もくれず、工房の裏庭に転がっていた、小石が混じるごく普通の「泥土」を両手ですくい上げました。驚く弟子たちに巨匠はこう言ったのです。「器の美しさと価値は、素材がどれほど立派かで決まるのではない。この私の手がこれを選び、愛を込めて形造るからこそ、最高の器になるのだ」と。
パウロが語る「陶器師と粘土」の例えも、まさにこのことです。私たちが今「あわれみの器」として選ばれ、神の子とされているのは、私たちが他の人より道徳的に優れていたからでも、努力して自分を立派に見せたからでもありません。「事の成就は、願い求める者や走る者によりません。ただ、あわれんでくださる神によります」(ローマ9:16)。取るに足りないただの土くれであった私たちを、神様が一方的なあわれみによって選び取り、ご自身の御手の中で価値ある尊い器として造り変えてくださったのです。
今日の薦め
私たちは時々、「もっと立派な信仰者にならなければ、神様に愛されないのではないか」と焦り、自分という石を鉄の道具で懸命に削り、加工しようとしてしまいます。しかし今日、神様は「自然の石のままで、ありのままでわたしのもとに来てわたしに頼りなさい。」と招いておられます。私たちの救いは、人間の願いや努力の量で決まるのではなく、ただ神様のあわれみによるからです。
あなたの弱さも、繰り返してしまう失敗も、隠さずにそのまま祭壇(十字架)に持って行きましょう。何の取り柄もない泥土のような私たちを、神様はご自身の主権的な愛によって、最も美しい「あわれみの器」として今日も大切に抱きしめてくださっています。この豊かな恵みに寄り頼み、自分の努力を少し手放して、平安な心で今日という一日を歩み出しましょう。

