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視線を上げる——人生の荒波の中で見つめるべきたった一つの光
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」 (へブル人への手紙 12章2節 / 新改訳2017)
聖書の中でも、困難や悩みのただ中にいる時に、最も力強く私たちの心を励ましてくれる御言葉の一つです。この短い一節に込められた「視線の法則」と「キリストの愛」について、少し分かち合いをさせてください。
①「視線の法則」——見つめる方向へ進んでいく
自転車の運転や車の運転を教わる時、インストラクターから必ず言われる鉄則があります。 それは、「障害物を見てはいけない。行きたい方向(抜け道)を見なさい」ということです。
道に大きな石が落ちている時、「あの石にぶつかってはいけない、ぶつかってはいけない」と石をじっと見つめていると、不思議なことに、ハンドルは自然と石の方向へと向かい、結局ぶつかってしまいます。これを心理学や運転の用語で「ターゲット・パニック(視線の法則)」と呼びます。 障害物を避けるための唯一の方法は、石から目を離し、安全な「進むべき道」へと視線を上げることなのです。
私たちのクリスチャン人生(信仰の歩み)も全く同じです。 毎日の生活の中で、私たちは多くの「障害物」に直面します。人間関係の悩み、将来への不安、健康への恐れ、そして自分自身の弱さや失敗……。私たちがそれらの「問題」ばかりをじっと見つめ、「どうしよう、どうしよう」と思い煩っていると、私たちの心はどんどんその問題に引きずり込まれ、不安に飲み込まれて沈んでしまいます。
だからこそ、聖書は私たちにこう命じています。 「イエスから目を離さないでいなさい。」
不安や問題から目をそらし(現実逃避するのではなく)、それらをはるかに超えて、私たちを絶対的な安全と平安に導いてくださる「イエス・キリスト」へと視線を上げること。キリストを見つめ続ける時、私たちの人生の船は、どんな嵐の中でも確実に希望の港へと進んでいくことができます。
②イエス様が見つめていた「喜び」とは何か?
この御言葉の後半には、さらに感動的な事実が書かれています。 私たちがイエス様を見つめるずっと前から、イエス様ご自身があるものを「見つめて」おられたというのです。
「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び……」
イエス様は、十字架という想像を絶する苦痛と恥辱のただ中にありました。しかし、その苦しみの中でさえ、イエス様の視線はブレることがありませんでした。 イエス様が見つめておられた「ご自分の前に置かれた喜び」とは、一体何だったのでしょうか。
それは、「あなた」です。
十字架の苦しみを通して、罪に縛られていたあなたが赦され、永遠のいのちを得て、神様の子どもとして天の家に笑顔で帰ってくること。その「あなたを救い出す喜び」を真っ直ぐに見つめておられたからこそ、イエス様はどんな苦しみも、見下される恥ずかしさも、すべて耐え忍ぶことができたのです。
今日、あなたの視線をどこに向けますか?
私たちは、自分の信仰の弱さに落ち込むことがあります。「もっと立派に信じたいのに、すぐ不安になってしまう」と。 しかし、この御言葉は、イエス様が私たちの「信仰の創始者(生み出す方)」であり「完成者(仕上げる方)」であると約束しています。信仰のスタートもゴールも、あなた自身の努力ではなく、キリストが責任を持って完成させてくださるのです。
今日、あなたの目の前にどんな問題の石が転がっていたとしても、あるいはどんな荒波が立っていたとしても、どうかその状況からそっと視線を上げてください。 あなたを救うために十字架を忍ばれた、愛に満ちたキリストの顔を真っ直ぐに見つめ直す時、あなたの心に、どんな環境にも揺るがない深い平安と力が注がれることでしょう。

