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「失われた王冠と、いばらの冠 〜高慢による滅びと、へりくだりによる救い〜」
皆さん、私たちは誰もが、目には見えない「王冠」を頭に被って生きています。それは、「自分の人生は自分が支配する」というプライドであったり、社会的な地位や名誉、あるいは「自分は正しい」という自己義認の王冠かもしれません。しかし聖書は、私たちがその「自分の王冠」に固執するとき、かえってすべてを失ってしまう危険性を警告しています。本日は、歴代誌とヨハネの福音書から、二つの対照的な「王冠」の姿を通して、真の解放と救いについてご一緒に考えてみましょう。
高慢が奪い去ったゼデキヤの王冠
歴代誌第二の36章には、南ユダ王国の最後の王、ゼデキヤの悲劇が記されています。彼は神様によって王の座に就けられましたが、預言者エレミヤを通して語られる神の言葉に耳を傾けようとはしませんでした。聖書は彼の態度を「うなじをこわくし、心をかたくなにして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった」と表現しています。
ゼデキヤは、自分の力と知恵で国を守り、自分の王冠を維持できると過信していました。神様に従うことよりも、大国エジプトと同盟を結ぶという人間の政治的駆け引きを選んだのです。しかしその高慢な選択は、最悪の結末を招きました。
バビロンの軍勢によってエルサレムは陥落し、ゼデキヤは逃亡の末に捕らえられます。彼は目の前で自分の子どもたちを殺され、その直後に両目をえぐり出され、青銅の足かせをはめられてバビロンへと引かれていきました。彼が命がけで守ろうとした王冠も、国も、自由も、すべてが失われました。これが「バビロン捕囚」という絶望です。
これは決して昔の歴史物語ではありません。私たちもまた、神様の声に耳を塞ぎ、「自分流」で生きようと意地を張る時、心に平安を失い、人間関係を壊し、罪と自己中心という見えない鎖につながれる「霊的な捕囚」を経験するのです。
沈みゆく船と、重たい金塊の例え
ここで、ある例え話を想像してみてください。
沈みかけた船から乗客が海へ飛び込み、救命ボートに向かって泳いでいます。しかし、一人の男だけがどんどん沈んでいきます。彼のコートのポケットには、船の金庫から持ち出した大量の「金塊」が詰め込まれていました。救助隊員が「それを手放せ! そうしないと溺れるぞ!」と叫びますが、彼は「これは俺の財産だ!」と固く握りしめ、結局その重みで海の底へと沈んでいきました。
ゼデキヤが手放せなかったプライドという王冠は、まさにこの「金塊」と同じでした。自分を救うどころか、自分自身を滅びの淵へと引きずり込んでしまう重荷だったのです。
まことの王が選んだ「いばらの冠」
しかし、聖書はもう一つの全く異なる「冠」の姿を私たちに示しています。それが、ヨハネの福音書19章に登場するイエス・キリストの姿です。

ローマの総督ピラトの前に引き出されたイエスは、兵士たちから「いばらの冠」を編んで頭に被せられ、紫の衣を着せられて、「ユダヤ人の王様、万歳」と嘲笑されていました。
創世記(3章18節)を読むと、「いばら」は人間の罪がもたらした「のろい」の象徴であることがわかります。つまり、全く罪のない神の子であるイエス・キリストが、私たちが受けるべき罪の呪いと刑罰を、その頭に引き受けてくださったのです。
イエス様は、天の御国における栄光に満ちた真の王冠を持っておられました。しかし、罪の奴隷となり、霊的なバビロン捕囚状態にある私たちを救い出すために、その輝かしい王冠を自ら脱ぎ捨て、最も屈辱的で痛みに満ちた「いばらの冠」を喜んで被ってくださいました。ゼデキヤが「自分のために」王冠に固執してすべてを失ったのに対し、イエス様は「私たちを愛するがゆえに」すべてを捨て、私たちの身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。
身代わりとなった裁判官の愛
アメリカの法廷で実際にあったと言われる、有名なエピソードがあります。
ある日、裁判官の前に一人の男が引き出されました。彼は生活の苦しさから罪を犯してしまったのです。裁判官は男の顔を見て驚きました。なんとその男は、裁判官の昔からの親友だったのです。
裁判官は悩みましたが、法を曲げるわけにはいきません。彼は厳格に「罰金刑」を言い渡しました。男には到底払えない高額な罰金であり、払えなければ刑務所行きです。男が絶望してうなだれたその時、裁判官は自らの裁判官の法服(ローブ)を脱ぎ、法壇から降りてきました。そして親友の隣に立ち、自分の財産から全額を取り出して書記官に支払い、こう言ったのです。
「裁判官としての私は、法に従って君を裁いた。しかし、友としての私は、君の罰金を代わりに払う。」
イエス・キリストが十字架でしてくださったことは、まさにこれと同じです。神としての栄光の衣を脱ぎ、私たちの隣に立ち、ご自身の命という最も高価な代価を支払って、私たちを罪の牢獄から解放してくださいました。
いばらの冠がもたらした解放
高慢は私たちからすべてを奪い、滅びへと導きます。しかし、キリストのへりくだりは私たちに永遠の命と自由をもたらしました。
もし今日、あなたが「自分のプライド」や「意地」という重たい王冠を必死に握りしめ、苦しんでいるなら、それをイエス様の十字架の前に下ろしてみませんか。私たちが自分の王冠を手放すとき、イエス様はご自身の「いばらの冠」によって勝ち取られた赦しと愛を与え、私たちに「いのちの冠」を被せてくださいます。
この無限の愛に信頼し、今日から真の解放の中を歩んで行きましょう。

