疑うトマスに現れてくださった復活の主 ―「わが主、わが神」との告白に至るまで―

この記事の目次

疑うトマスに現れてくださった復活の主

―「わが主、わが神」との告白に至るまで―

イエス・キリストが十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられたとき、主は弟子たちにご自身を現されました。
しかし、その場に一人いなかった弟子がいました。
それがトマスです。

他の弟子たちは、復活の主にお会いして興奮し、喜びに満たされていました。
「私たちは主を見た!」
そう語る弟子たちの姿を見て、トマスはどう感じたでしょうか。

おそらく彼は、ただ冷たく反発していたのではないと思います。
むしろ、信じたかったのではないでしょうか。
みんなが見たというなら、自分も見たい。
みんなが喜んでいるなら、自分もその喜びに入りたい。
けれども、自分はその場にいなかった。
その悔しさ、さみしさ、取り残されたような思いの中で、彼はこう言いました。

「私は、その手にくぎの跡を見、私の指をそのくぎのところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
(ヨハネ20:25)

この言葉だけを見ると、ずいぶん頑固に見えるかもしれません。
しかし実際には、トマスは本当に絶望していたのだと思います。
十字架で主が死なれたことがあまりにも大きすぎて、簡単には「生きておられる」とは信じられなかったのです。

けれども、ここに福音のすばらしさがあります。
復活の主イエスは、そのトマスを見捨てられなかったのです。

八日後、弟子たちが再び集まっていたとき、今度はトマスも一緒にいました。
そこへ主イエスが来て、戸が閉まっていたのに真ん中に立ち、
「平安があなたがたにあるように」
と言われました。

そして主は、まっすぐトマスに向き合われます。
なんと主は、トマスが以前口にした言葉を、そのまま知っておられるかのように言われたのです。

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
(ヨハネ20:27)

ここにまず見えるのは、復活の主は生きておられ、すべてをご存じであるということです。
トマスがその場にいなかったことも、トマスが口にした疑いの言葉も、主はすべて知っておられました。
しかも主は、その疑い深い弟子を責めるより先に、近づいてくださったのです。

これは大きな慰めです。
私たちも、「信じたいのに信じきれない」「心が揺れる」「主がおられるなら、なぜこんなことが起こるのか」と思うことがあります。
けれども復活の主は、そのような私たちの心もご存じで、なお近づいてくださるお方なのです。


この場面が明らかにする復活の真理

1. イエス・キリストの復活は、ただの気持ちの問題ではない

まず大切なのは、主の復活は、弟子たちの「気のせい」や「心の中の希望」ではなかったということです。

トマスは、あまりにも具体的です。
「くぎの跡に指を差し入れ、わきの傷に手を差し入れなければ信じない」と言いました。
これは、彼が現実のからだをもった復活を求めていたことを示しています。

そしてイエス様は、その要求に応えるように現れました。
つまり復活とは、
弟子たちの心の中で“イエス様は今も生きている気がする”という程度の話ではないのです。
本当に、現実に、死なれたお方が、死を打ち破ってよみがえられたのです。

復活は思想ではありません。
復活は感動でもありません。
復活は出来事です。
歴史の中で起こった、神の救いの事実なのです。


2. 復活された主は、十字架で死なれたそのお方である

次に見える真理は、復活した主は、十字架で死なれた主と同じお方であるということです。

主はトマスに、ご自分のくぎ跡と槍の跡を示されました。
これはとても重要です。
よみがえられたのは、まったく別の存在ではありません。
十字架につけられ、私たちの罪のために血を流してくださった、その同じイエス様が復活されたのです。

つまり復活は、十字架を無効にするものではありません。
むしろ復活は、十字架が神の救いの御業であったことの証明です。

もしイエス様が死んだままであったなら、私たちはこう考えるかもしれません。
「あの方は立派な先生だったが、結局は死で終わった」と。
しかし、イエス様はよみがえられました。
だからこそ、十字架の死は敗北ではなく、罪の贖いの完成だったのだとわかるのです。


3. 復活は、イエスがまことに神であり主であることの証明である

トマスは、復活の主を前にしてこう告白しました。

「わが主。わが神。」
(ヨハネ20:28)

これは、ヨハネの福音書の中でも最も高い告白の一つです。
トマスはただ、
「先生、生きておられたのですね」
と言ったのではありません。
「わが主、わが神」と告白したのです。

ここでトマスは、
イエスは単なる教師でも預言者でもなく、まことの神であり、わたしの主である
と認めました。

復活は、イエスが神の子であり、救い主であることの決定的な証明です。
死は、すべての人の前に立ちはだかる最後の敵です。
だれも自分の力で死を打ち破ることはできません。
しかし主イエスは、死を破ってよみがえられました。
それゆえ、主はまことにいのちの主であり、神の御子であられるのです。


4. 復活の主は、疑う者をも信仰へ導いてくださる

この場面の慰めは、トマスが疑ったことそのものより、主がそのトマスを信仰へ導かれたことにあります。

主は、トマスの弱さをご存じでした。
しかし見捨てませんでした。
主はトマスを恥さらしにするために現れたのではなく、信じる者にするために現れたのです。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

この御言葉には、叱責だけでなく、深い愛があります。
まるで主はこう言っておられるようです。
「トマス、疑いの中にとどまらなくてよい。
わたしを見なさい。
わたしは生きている。
あなたのためにも、十字架にかかり、あなたのためにも、よみがえったのだ。」

私たちも、信仰の歩みの中で揺れることがあります。
しかし主は、揺れる者を切り捨てるのではなく、真理へと導いてくださる主です。


5. 「見ないで信じる者」は、劣った信仰ではない

このあと主はこう言われました。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる者たちは幸いです。」
(ヨハネ20:29)

これは、「トマスはだめで、後の人のほうが偉い」という意味ではありません。
そうではなく、これからの時代の救いの道を示しているのです。

弟子たちは復活の主を見ました。
けれども、その後の時代に生きる私たちは、肉眼で復活の主を見ることはありません。
では私たちは信じられないのか。
いいえ、そうではありません。

私たちは、使徒たちの証言を通して、聖書を通して、信じるのです。
ヨハネはこのすぐ後で書いています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」
(ヨハネ20:31)

つまり、聖書に記された復活の証言は、私たちを信仰へ導くためにあるのです。
見ないで信じるとは、根拠なく信じることではありません。
神が与えてくださった証言に基づいて信じることです。


復活の主が私たちに語ること

このトマスの場面から、私たちへの大切なメッセージを受け取りましょう。

① 復活は、絶望が最後ではないことを示す

トマスにとって、十字架は終わりでした。
しかし、神はその終わりを終わりにされませんでした。
復活は、絶望の向こうに神のいのちがあることを示します。

② 復活は、十字架の救いが本物である証拠である

主は罪のために死なれ、よみがえられました。
だから私たちの罪の赦しは確かです。
救いは空想ではなく、神が歴史の中で行われた事実に基づいています。

③ 復活は、イエスを「わが主、わが神」と告白するように招く

トマスは最後に、ただ納得したのではありません。
礼拝へ導かれました。
「わが主、わが神。」
復活の主に出会うとは、単に知識を得ることではなく、主を主としてひれ伏すことなのです。

④ 復活の主は、今も生きておられる

主は昔だけ生きておられたのではありません。
今も生きておられます。
だから、今も救うことができ、今も祈りを聞くことができ、今も私たちを支えることができるのです。


結び

トマスは、疑いから始まりました。
けれどもその終わりは、**「わが主、わが神」**という信仰告白でした。

ここに希望があります。
私たちの出発点が弱さであっても、揺れであっても、主はそこに来てくださいます。
そして私たちを、疑いのままに放置せず、信仰へ導いてくださるのです。

復活の主は、ただ「死ななかった」というだけのお方ではありません。
十字架で私たちの罪のために死に、三日目によみがえり、今も生きておられる救い主です。

ですから私たちも、トマスとともに告白したいのです。

「わが主、わが神。」

 

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