
この記事の目次
「もう十分です」と言ったエリヤを、神様は見捨てなかった
列王記第一19章に学ぶ、疲れた心への神様のあわれみ
あれほど大胆に神様の働きをした預言者エリヤが、「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」と訴えました。
信仰の人でも、恐れ、疲れ、心が折れてしまうことがあります。
しかし神様は、そんなエリヤを責めるのではなく、休ませ、養い、静かに語り、再び立たせてくださいました。
列王記第一19章から、弱り切った人を支える神様のあわれみと回復の恵みを学びます。
「もう十分です」と言ったエリヤを、神様は見捨てなかったのです。
列王記第一19章に学ぶ、疲れた心への神様のあわれみ
信仰の人でも「もうだめだ」と思うことがある
列王記第一19章は、とても人間味のある章です。
そこには、偉大な預言者エリヤが、疲れ切って座り込み、「もう私のいのちを取ってください」と訴える姿が記されています。
私たちはエリヤというと、カルメル山でバアルの預言者たちと対決し、火を天から下らせた力強い信仰の人、という印象を持ちます。
確かにエリヤはそのような人物でした。
しかし聖書は、そのエリヤの弱さも隠しません。
エリヤが死を願った聖書箇所
それは
『列王記第一19章4節』
「彼自身は荒野に入り、一日の道のりを歩いて、えにしだの木の陰に座り、自分の死を願って言った。『主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。』」
これはとても重い言葉です。
でも同時に、私たちにもどこか重なる言葉ではないでしょうか。
「もう十分です。」
「もうこれ以上は無理です。」
「自分はだめだ。」
「何も変えられなかった。」
私たちも人生のどこかで、似たような気持ちになることがあります。
エリヤはなぜ、そこまで追い詰められたのか
大きな戦いの後で、心も体も限界だった
エリヤは18章で大きな戦いを終えたばかりでした。
カルメル山でバアルの預言者たちと対決し、主の火が下るという大きな出来事を体験しました。
人間的に見れば、これは大勝利です。
「これで安心だ」と思ってもよさそうです。
けれど実際には、その直後にエリヤは崩れました。
大きな緊張の後には、大きな疲れが来ます。
必死に立っていた人ほど、その後にどっと弱ることがあります。
私たちもそうです。
大変な用事が終わった後。
大きな責任を果たした後。
頑張ってきたことが一区切りついた後。
その時に、急に力が抜けてしまうことがあります。
エリヤは、まさにそのような状態だったのでしょう。
イゼベルの言葉が恐れを呼び起こした
さらに追い打ちをかけたのが、イゼベルの脅しでした。
王アハブの妻イゼベルは、エリヤを殺すと宣言しました。
それを聞いたエリヤは恐れて逃げました。
あれほど大胆に主のために立った人でも、恐れることがあるのです。
信仰を持っている人だからといって、いつも平気とは限りません。
信仰者にも恐れがあります。
疲れがあります。
心が折れそうになる時があります。
聖書はなんと『正直』なのでしょう。私達は偉大な信仰者を思い浮かべる時、自分とは違う、自分ではそうはなれない、それこそ『雲の上の人』のように思ってしまいます。
でも、同じ人間なのです。少し前には信仰に立って神様の働きを神様の力に頼って素晴らしく成し遂げた信仰者でも、すぐ後には、このようになってしまうのです。
それは、すべての人間は『愚かで弱い罪人』だからです。
すべての信仰者も失敗をしました。(アブラハム、モーセ・・・、パウロ・・・)
でも、どうしてそこから立ち上がったのでしょうか。失敗のあと、その信仰者はどうしたのか?そして神様はどうされたのか?
ここを学び自分自身に適応していくことが大切です。
「私だけが残った」と思い込んでいた
エリヤは後で「私だけが残りました」と言います。
これは、孤独と絶望の言葉です。
「自分だけが頑張っている。」
「自分だけが苦しい。」
「誰もわかってくれない。」
「もう終わりだ。」
苦しみの中にいる時、人は視野が狭くなります。
本当は神様が働いておられるのに、それが見えなくなります。
本当は支えがあるのに、「自分だけだ」と思ってしまいます。
エリヤも、そのような心の暗闇の中にいたのです。
しかし、神様は!!
神様はエリヤを責めず、まず休ませられた
神様の最初の対応は「説教」ではなく「休息」だった
ここがこの箇所のとても美しいところです。
神様はエリヤを責めませんでした。
「どうしてそんな弱音を吐くのか。」
「もっとしっかりしなさい。」
「信仰が足りない。」
そのようなことは言われませんでした。
神様がまずなさったことは、『休ませること』でした。
エリヤは眠ります。
すると御使いが来て、パンと水を備えます。
そして「起きて食べなさい」と言います。
これは本当に大切なことです。
神様は、疲れ切った人に必要なのが、まず休息であることをご存じなのです。
体が疲れている。
心がすり減っている。
そのような時に必要なのは、まず「回復」なのです。
神様は私たちの弱さをよく知っておられる
私たちは時々、自分にも人にも厳しくなります。
「こんなことで弱ってはいけない。」
「もっと頑張らないと。」
「休んではいけない。」
でも神様は、私たちが土の器であることをご存じです。
休む必要があることも、弱ることも、よくご存じです。
だから神様は、弱ったエリヤにまず食べさせ、眠らせ、力を回復させられたのです。
ここに神様の深いあわれみがあります。
神様は静かに語られた
大風でも地震でも火でもなく、細い静かな声で
エリヤはその後、ホレブ山に行きます。
そこで神様が現れます。
大風がありました。
地震がありました。
火がありました。
けれど主はその中にはおられませんでした。
その後に、『かすかな細い声』がありました。
神様は、砕けたエリヤに対して、静かに語られたのです。
これはとても深い場面です。
私たちは「神様のみわざ」というと、派手で劇的なものを思い浮かべやすいです。
でも神様は、弱り切った人には、静かに、やさしく近づかれることもあるのです。
神様は、痛んだ心にふさわしい仕方で語られる
疲れている人に、大声で命令しても届きません。
傷ついている心には、強い言葉がさらに重く響くことがあります。
神様はそのことをご存じです。
だからエリヤには、静かな声で語られました。
私たちにも同じです。
聖書の一節を通して。
祈りの中で与えられる平安を通して。
誰かのさりげない一言を通して。
神様は静かに語られることがあります。
その声は派手ではないかもしれません。
でも、本当に必要な時に、心の奥に届く声です。
神様は「もう終わりだ」とは言われなかった
エリヤには、まだ使命があった
エリヤは「もう十分です」と言いました。
しかし神様は、「では終わりにしよう」とは言われませんでした。
むしろ神様は、エリヤに新しい使命を与えられました。
①ハザエルに油を注ぐこと。
➁エフーに油を注ぐこと。
③エリシャを後継者として召すこと。
つまり神様は、エリヤに対して
「あなたにはまだ役割がある」
と言われたのです。
これは大きな慰めです。
私たちが「もう終わりだ」と思っても、神様は終わっておられないことがあります。
自分では何も残っていないと思っても、神様はなお用いてくださることがあります。
「あなた一人ではない」と神様は示された
さらに神様は、エリヤに「イスラエルの中に七千人を残している」と言われました。
エリヤは「私だけだ」と思っていました。
でも、そうではありませんでした。
神様は、エリヤの知らないところでも働いておられました。
残りの者たちを守り、備えておられました。
これは私たちにも大切なことです。
私たちも苦しい時、「自分だけだ」と思いやすいです。
でも神様は、見えないところで備えをしておられます。
私たちが知らないところで、人を、助けを、道を備えておられるのです。
この箇所から私たちは何を学ぶのか
信仰の人でも弱ることがある
まず学べることは、信仰の人でも深く弱ることがあるということです。
エリヤほどの預言者でも、「もう私のいのちを取ってください」と言いました。
ですから、私たちが弱っても、自分を責めすぎないことです。
苦しい時、疲れる時、心が折れそうになる時があります。
でもそれは、あなたが神様に見放されたからではありません。
神様は弱った人を責めるのではなく支えてくださる
神様はエリヤを責めませんでした。
まず休ませ、食べさせ、静かに語り、再び立たせられました。
この神様は、今も変わりません。
あなたが疲れている時、まず支えようとしてくださる神様です。
「もう終わりだ」と思っても、神様は終わっておられない
エリヤは終わりだと思いました。
でも神様は、そこから先を用意しておられました。
私たちも、人生の中で「もうだめだ」と思う時があります。
でもその時でも、神様のご計画は終わっていないことがあります。
まとめ
疲れた心に、神様は今日もあわれみ深く近づいてくださる
列王記第一19章は、弱ったエリヤを通して、神様がどのようなお方かを教えてくれます。
神様は、
疲れた人を責めるお方ではありません。
弱った人を見捨てるお方でもありません。
休ませ、養い、静かに語り、再び立たせてくださるお方です。
もし今あなたが、
「もう十分です」と言いたいほど疲れているなら、
「もう無理です」と感じているなら、
この箇所は大きな慰めになります。
神様はあなたを責めるのではなく、まず必要を満たし、支え、そしてふたたび歩ませてくださるお方です。
ですから、今日この御言葉を心に受け取りたいのです。
「もう十分です」と言ったエリヤを、神様は見捨てなかった。
そしてその神様は、今も変わらず、私たちにもあわれみ深く近づいてくださるのです。

