【聖書通読第6週3日目】復活の力により「主の為に生き、主の栄光をあらわす」(出エジプト記20-21章/マタイ28章)

この記事の目次

出エジプト記20章 十戒。律法は守れない罪深い人間の罪を示すためにある。

解説

出エジプト記20章は、シナイ山で主が語られる十戒が中心です。
順序が大切です。主は先に「わたしはあなたを救い出した」と宣言し、その上で「この救いにふさわしい歩み」を示されます。
第一戒から第四戒は、主だけを神として礼拝し、み名を軽んじず、安息を覚えることを命じます。信仰の中心は、生活の便利さや気分ではなく、主ご自身です。
第五戒から第十戒は、親を敬うこと、いのち・結婚・財産・名誉を守ること、欲に支配されないことを命じます。しかし、十戒は、人が努力して守ろうとしても守れない罪びとであることを示し、イエスキリストの新しい契約(エレミヤ書32章)による恵みによる信仰による救いの布石です。

神様が望まれていること

主は、救われた者が「主を第一にする心」と「隣人を損なわない生き方」を持つことを望まれます。
今日の問いです。私は、主を信じると言いながら、実際には何を第一に置いているでしょうか。人を守るはずの言葉や態度で、だれかを傷つけていないでしょうか。


出エジプト記21章 契約の民の具体的な生活。正義と責任を学ぶ

解説

21章は「契約の書」と呼ばれる具体的な規定が並びます。
奴隷に関する扱い、暴力や傷害への責任、補償の原則、家畜や財産の損害など、現実の生活で起こる問題が扱われます。
ポイントは、主が抽象的な理想だけでなく、日常の争いの場面にまで踏み込んで「正しさ」を教えられることです。
強い者が押し切る社会ではなく、被害が軽く扱われない社会へ。責任をあいまいにせず、償うべきことを償う道へ。主は民を導かれます。

神様が望まれていること

主は、信仰が言葉だけで終わらず、具体的な扱い方・責任の取り方に現れることを望まれます。
今日の問いです。私は、都合が悪い時に責任を小さく見せていないでしょうか。弱い立場の人の痛みを「仕方ない」で終わらせていないでしょうか。


マタイ28章 復活の主。権威と使命と約束

解説

マタイ28章は復活の章です。女性たちは空の墓を見て、御使いから「ここにはおられない。よみがえられた」と告げられます。弟子たちは恐れと疑いを抱えながらも、復活の主に出会います。
主は言われます。「わたしには天と地のいっさいの権威が与えられている。」そして「行って弟子とし、バプテスマを授け、わたしが命じたことを守るように教えなさい。」と命じられます。
最後に主は約束されます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」復活は事実の出来事であり、同時に、教会の歩みを支える信仰の確かな土台です。

神様が望まれていること

神は、復活の主を礼拝し、主の言葉に従い、福音を伝え、教え続ける教会であることを望まれます。
今日の問いです。私は、主の権威を信じていると言いながら、なお自分中心の判断で歩んでいないでしょうか。主が「共にいる」と言われるのに、孤独な戦い方を選んでいないでしょうか。

 

きょうの3章のまとめ

出エジプト記20–21章とマタイ28章を一本に束ねると、今日の中心はこれです。
「救いは“自由になった”で終わらず、“主のものとして生きる”へ続き、その歩みを復活の主が最後まで支えてくださる」ということです。

主はまず、救い出した民に十戒を与え、「だれを第一とするか」「どう人を扱うか」を示されました。
それは縛るためではなく、罪と混乱から守り、礼拝と正義の道を整えるためです。
21章の具体的な規定は、信仰が理想論ではなく、生活の現場で“責任を負い、弱い者を守る形”になることを求めています。

そしてマタイ28章で、十字架を通ってよみがえられた主が「すべての権威」をもって、弟子たちを遣わし、「いつも共にいる」と約束されます。
つまり私たちは、自分の力で律法を守って合格するのではなく、信仰による救いの恵みに根ざし、復活の主の臨在に支えられて従うのです。

今日の問いです。
あなたの信仰は「救われた」で止まっていませんか。
それとも「主のものとして、主の前で、隣人の前で」神様に信頼し神様の栄光をあらわすために生きるというところへ進もうとしていますか。

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