
この記事の目次
荒野のパンと水、そして主の苦しみの夜
【聖書通読:第6週1日目】(出エジ16–17/マタイ26)
出エジプト記16章:不満の荒野で、天のパンが降る
出エジプト記17章:前に渇き、後ろに敵、それでも主はおられる
マタイ26章:主は“逃げずに”十字架へ向かわれた
マタイ26章は、十字架の前夜から逮捕までの「静かな嵐」の章です。
イエスは過越の食事でパンと杯を取り、「これはわたしのからだ」「これは契約の血」と語られます。ここで主は、ご自身の死を“むだ死に”ではなく、罪の赦しのための「神の約束(契約)」として差し出されました。私たちの救いは、主の意志と愛に支えられています。
その後、ゲッセマネで主は深く苦しまれます。「この杯を…しかし、わたしの願いではなく、みこころのままに。」この祈りは、弱さを装わない真実の祈りです。逃げ道を探す祈りではなく、神に従う道を選ぶ祈りです。弟子たちが眠り、ペテロがつまずく準備をしている間も、主はひとりで戦っておられます。
ここで詩篇22篇が思い出されます。そして、詩篇22篇は、救い主の身代わりの死による『罪の赦し=人類の救い』の成就の高らかな宣言の預言の箇所です。では、救い主イエスキリストはなぜ、このゲッセマネの園で苦しみもだえて血のような汗をながして祈られたのでしょうか。
イエスキリストの十字架の苦しみは、肉体的苦しみだけではなく、また人々からさげすまれ馬鹿にされるという精神的苦しみだけでもありません。罪の全きなきお方が罪あるものの立場を取って裁かれて下さるという苦しみと、父なる神様から見捨てられ父なる神様との交わりが断たれてしまうというイエスキリストにとって絶対に耐えられない苦しみであったのです。
しかし詩篇22篇は絶望で終わりません。苦しみの向こうで神の救いと賛美へ転じ、諸国が主を礼拝する幻へ広がります。つまり、暗闇の祈りは最後の言葉ではなく、救いの始まりです。
マタイ26章を読む私たちへの問いはこれです。あなたは不安の夜に、剣(自力)を抜きますか。それとも、主の言葉に立って「みこころのままに」と委ねますか。
