【聖書通読:第6週1日目】荒野のパンと水、そして主の苦しみの夜(出エジ16–17/マタイ26)

この記事の目次

荒野のパンと水、そして主の苦しみの夜

【聖書通読:第6週1日目】(出エジ16–17/マタイ26)

出エジプト記16章:不満の荒野で、天のパンが降る

エジプトを出たのに、すぐにお腹が減り、民はつぶやきます。 「昔のほうが良かった」と過去を美化し、今の不安に飲まれそうになります。 けれど主は、叱り飛ばして終わりになさいません。 マナを降らせ、「今日に必要な分」を与えます。 ここが大事です。 主は、明日の分まで握って安心したい私たちに、「今日、わたしを信じなさい」と教えます。 貯め込むと腐るマナは、主が意地悪なのではなく、「不安に支配される心」をほどくための恵みです。 主は、あなたを飢えさせる方ではなく、養う方です。

出エジプト記17章:前に渇き、後ろに敵、それでも主はおられる

水がなくなり、民は争います。 しかし主は岩から水を出し、荒野のど真ん中に「いのちの道」を通されます。 続いてアマレクが襲い、背後から恐れが迫ります。 ヨシュアが戦い、モーセは山で手を挙げます。 手が下がると苦しくなり、支えられて上がると前に進みます。 これは「祈りが戦いを動かす」という、荒野の授業です。 私たちも、前に問題、後ろにプレッシャーが来る時があります。 その時、主は「一人で背負え」と言わず、「祈りの手を支え合いなさい」と招かれます。

マタイ26章:主は“逃げずに”十字架へ向かわれた

マタイ26章は、十字架の前夜から逮捕までの「静かな嵐」の章です。
イエスは過越の食事でパンと杯を取り、「これはわたしのからだ」「これは契約の血」と語られます。ここで主は、ご自身の死を“むだ死に”ではなく、罪の赦しのための「神の約束(契約)」として差し出されました。私たちの救いは、主の意志と愛に支えられています。

その後、ゲッセマネで主は深く苦しまれます。「この杯を…しかし、わたしの願いではなく、みこころのままに。」この祈りは、弱さを装わない真実の祈りです。逃げ道を探す祈りではなく、神に従う道を選ぶ祈りです。弟子たちが眠り、ペテロがつまずく準備をしている間も、主はひとりで戦っておられます。

ここで詩篇22篇が思い出されます。そして、詩篇22篇は、救い主の身代わりの死による『罪の赦し=人類の救い』の成就の高らかな宣言の預言の箇所です。では、救い主イエスキリストはなぜ、このゲッセマネの園で苦しみもだえて血のような汗をながして祈られたのでしょうか。

イエスキリストの十字架の苦しみは肉体的苦しみだけではなく、また人々からさげすまれ馬鹿にされるという精神的苦しみだけでもありません。罪の全きなきお方が罪あるものの立場を取って裁かれて下さるという苦しみと、父なる神様から見捨てられ父なる神様との交わりが断たれてしまうというイエスキリストにとって絶対に耐えられない苦しみであったのです。

しかし詩篇22篇は絶望で終わりません。苦しみの向こうで神の救いと賛美へ転じ、諸国が主を礼拝する幻へ広がります。つまり、暗闇の祈りは最後の言葉ではなく、救いの始まりです。
マタイ26章を読む私たちへの問いはこれです。あなたは不安の夜に、剣(自力)を抜きますか。それとも、主の言葉に立って「みこころのままに」と委ねますか。

神様が今日、願っておられること

神様を悲しませることが罪であるなら、『不平』『不満』『つぶやき』は、どれほど神様を悲しませることでしょう。しかし、『不平』『不満』『つぶやき』を私たちの力で黙らせるより、主の前に持ってきてほしいと神様はのぞんでおられます。 そして「今日の恵み」を受け取ってほしいと望んでおられるのです。 あなたは、どのような不安を“明日の分まで”抱え込んでいるのですか。

問題提議

主は「今日のマナ」(その日、その日に十分なマナ)を与えてくださいます。 それなのに私たちは、明日の安心を握るために、今日の恵みを味わう余裕を失っていないでしょうか。 あなたは今「(十分な今日の分だけで満足せず)明日の不安のために明日のために余分に手に入れようとしている腐ってしまうマナ」のように抱え込もうとしているものは何でしょうか。 それは、主を仰ぐ心を弱くしていませんか。 そして、祈ることすらできないほどに疲れているのに、なぜ主にささえていただこうとしないのですか。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事