【聖書通読第9週2日目】整えられた祭司と、十字架の王。神の救いは揺るがない(レビ記8章/マルコ15章)

この記事の目次

整えられた祭司と、十字架の王。神の救いは揺るがない

レビ記8章/マルコ15章

今日の通読は、レビ記8章とマルコ15章です。
一方は祭司の任職、もう一方は十字架の出来事です。
レビ記8章は、アロンとその子らが祭司として整えられる章です。
マルコ15章は、主イエスが裁かれ、十字架につけられ、死なれる章です。
外側から見ると、とても違う章に思えます。
けれど、この二つを並べて読むと、「人を神の前に立たせるために、神はどれほど真剣に救いの道を備えておられるか」が、はっきり見えてきます。

レビ記8章では、

祭司になることは自分で決める仕事ではなく、神に召され、整えられて初めて立てる務めであることが示されます。
モーセは、アロンとその子らを集め、水で洗い、祭司の衣を着せ、油を注ぎ、ささげ物をささげます。
洗いはきよめを表し、衣は神に仕える者としての立場を表し、油は神の任命と聖別を表します。
つまり祭司は、自分の力や熱心さで神の前に立つのではありません。
神ご自身が整え、任命し、仕える者として立たせるのです。
さらに、血を耳たぶ、親指、足の親指につける場面があります。
これは、聞くこと、行うこと、歩むことの全部が神のためにささげられるという意味を持っています。
祭司の務めは、礼拝のときだけ整っていればよいのではなく、その生き方全体が神のものとなることを求められていたのです。
神様は、表面だけではなく、全存在を聖なるものとして用いようとされます。
ここで私たちは考えます。
こんなにも細かく整えられなければ、神の前に立てないとしたら、だれが安心して神に近づけるのでしょうか。
この問いへの答えが、マルコ15章に現れます。

マルコ15章では、

主イエスがピラトの前に立たされます。
人々は「十字架につけろ」と叫びます。
兵士たちは主をあざけり、茨の冠をかぶせ、紫の衣を着せて「ユダヤ人の王、ばんざい」からかいます
しかし、この嘲りの中で、皮肉にも真理が語られています。
主イエスは本当に王なのです。
けれどその王の道は人が考える勝利の道ではなく、十字架の道でした。
十字架の場面では、人間の罪の深さがはっきり現れます。
宗教家は妬み、民衆は流され、弟子たちは逃げ、兵士たちは冷たく、だれも主を助けません。
そこにあるのは、人の弱さと罪だけです。
それでも主イエスは、そのただ中で逃げずに十字架にとどまられました。
これは敗北ではありません。
神の救いの御計画を最後まで果たすためでした。
そして主が息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けます。
神の救いの道の達成です。神と人とをさえぎる幕が上から下まで真っ二つです。下から上ではないのです=人が神に近づく方法ではなく、神がひとのところに降りてきて成し遂げてくださった救い上から下なのです。)
ここが今日の通読の中心です。

まとめ

レビ記8章では、
祭司だけが整えられて神の前に仕える道が示されました。
しかしマルコ15章では、
キリストの死によって、その幕が裂かれたのです。
神と人との間を隔てていたものが取り除かれ、神に近づく道が開かれました。
つまり、旧約で祭司が整えられていたのは、最終的にキリストが完全な大祭司として来られるためだったのです。
百人隊長が「この方は本当に神の子であった」と告白する場面も、深い意味を持っています。
祭司でも律法学者でもない異邦人が、十字架の下で主の真実に触れたのです。
神の救いは限られた人だけのものではなく、すべての人に開かれていくのだということが、ここに示されています。

今日神様が私たちに望んでおられることは?

今日、神様が私たちに望んでおられるのは、自分の力で神に近づこうとすることではなく、キリストが開いてくださった道に信頼して大胆に近づくことです。
また、耳も、手も、足も神のものとして生きることです。
つまり、礼拝の時間だけではなく聞くこと行うこと歩むことその全部を主にささげて生きることです。
私たちは、ときどき「もっとこうなってからとか、ああなってから神様に近づこう」と思って神様に従うことをあとまわしにし先送りにしてしまうことが多いです。
あるいは、「こんな自分では神の前に立てない」と感じます。
けれどレビ記8章とマルコ15章は、反対のことを語ります。
神に近づく道は人が整えてから開くのではなく神が整えてくださったから開かれるのです。
そして、その完成が十字架です。
今日の問いはこうです。
あなたは、自分の努力で神に近づこうとして疲れていないでしょうか。
あるいは、十字架によって開かれた道を知りながら、なお遠くに立っていないでしょうか。
主イエスは、十字架の王として、あなたのために幕を裂かれました。
だから今日、恐れだけでなく感謝をもって、大胆に神の前に進み出てよいのです。
救いの道は、もう揺るぎなく備えられているのですから。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事