生きる意味が分からずに無意味に生きることほど空しいことはありません。
昔のソ連(ロシア)での一番むごたらしい拷問とは・・・
人に大きな穴を掘らせて、掘ることができればその穴を埋めさせる・・・
ということを繰り返し実施させ、意味のないことを来る日も来る日もそれを実行させる。
すると、ほとんどの人が精神的に追い込まれるのです。なぜなら人間は意味のない無意味なことを繰り返し実施させられれば精神的に病んでしまうからです。
そうであるなら、あなたがもし存在する意味を知らずに生きるなら意味のない無意味なことを繰り返していることにならないでしょうか。
それでは、
この記事の目次
人は、なぜ、生きるのでしょうか、そしてその生きる目的は何でしょうか。
この問題については多くの人が悩み考える問題です。
しかし、解答を得ることができずに諦めて考えないようにしようと目をそらしてしまいます。
でも、自分自身が何のために生きているのかについては本当は人生で一番大切な問題であり解答を得なければ前に進むことができないほと重要なことです。
なぜならば、このことが解決できないために、多くの人々が悩み、苦しんでいるからです。
私たち人間は、自分が何のためにこの世に生まれ、生きつづけていなければならないのか。それに対する明確な答えを持たないまま、幸せに生きていく力は沸いてこない存在だからです。
私たち人間は、ただ無意味に生きているだけでは、本当の喜びも感動も感じない存在です。喜びも感動もない人生は不毛であり、そこにおいては、実りある豊かな人生は、期待できないのです。
星野富弘さんのカレンダーに掲載されている詩と絵
星野富弘さんのカレンダーに掲載されている詩と絵の一つに
母親豚が、子豚たちが、急いで楽しそうにえさを食べている姿に、
「何だって、そんなにあわてるんだ。
早く大きくなって
何が待っているというんだ
子豚よ
そんなに急いで食うなよ
そんなに楽しそうに食うなよ。」、
という内容の詩が掲載されている絵があります。
この母豚の心の中の思いを、私なりに推察すると、
ただ食べて大きくなって、ついには人間のご馳走になるだけだ。
そんなに楽しそうに、急いで食べる意味があるのか、
ということだろうと思います。
かわいそうと感じると思うのですが、多くの人はこの子豚のような生き方をしているのではないでしょうか。「生きるために食べる」ということが、いつしか「食べるために生きている」かのようになってしまっていないでしょうか。
物質的に豊かになってくると、どんどん幸せ感が増すのですが、実は精神的飢餓状態 に陥ってしまっていないでしょうか。
そこで人々は、立ち止まり、果たしてこのような生き方でよいのだろうか、自分たちの生き方に疑問を抱くようになるのです。
自分が何のために生きているのかという問いにたいする答えを得ずに・・・
ですから、
その疑問に対して適切な答えを見出すことができず、人生の空しさと寂しさに耐え切れず、いきているのが苦しくて自殺者が増えたのです。
(日中戦争・太平洋戦争での15年間の日本での死亡者数は300万人です。ですから年平均で一年で約20万人が死亡したと言われています。
そして現在の日本での自殺者数は年間2万人から3万人、自殺未遂も加えればその人数はどれほどでしょうか)
それは人間が、何のために生きるのかの確かな目的・使命感を持っていないことに大きな原因があるのです。
人間の生きる目的・使命は何か?
つづいて
人間の生きる目的・使命は何か。について考えたいと思います。
人間は何のために生かされ、そして果たすべき使命は何か。その責任は誰に対して負うのか。
この点について考えるとき、人はどこから来て今存在するのかということが大変重要なことになります。
人間の出現の根拠についての考え方を深く見ていきたいと思います。
人間の起源は 進化論か? 創造論か?
人間の出現の由来については、二つの見解があり、一般的に考えられているのは
「進化論」と「創造論」です。
進化論はダーウィンの「種の起源」という書物が発表されてスタートし、どんどん新しい進化論に発展していると言われています。でも、進化論に古いも最新もないのです。
なぜなら進化論の出発点は、『生命は偶然に発生した』ということにおいて何の変りもないからです。
そして、進化論は無神論の考え方であり『生命は偶然に発生した』とするのです。
すなわち生命は目的もなく偶然に発生したのなら生きる目的なんか存在しないのですから、『生きる意味がわからずに空しい』なんてことはそもそもおかしいことになるのです。
※トラクト『ダーウィンの晩年』より
ダーウィンは、22歳の時にピーグル号という軍艦で5年間航海にでていろいろな島などをめぐりました。
そしてガラパゴス島で、原住民に出会った時に人間ではなく悪魔にであったと言っています。
ダーウィンは、彼らを人間と認めずにけだもののような動物と受け止め、彼らをサルから人間に進化している途中のものと考えました。
しかし、その少し前にその島をアランガードナーという船長が訪れました。
そしてそのとき彼は原住民をみて神様が愛の対象として創造された人間なのに神様の愛を知らないということを深く憂い(うれい)悲しみました。
そしてアランガードナーは、宣教師になって原住民の彼らの言語で『神様の愛と福音』をどうしても伝えたいと決心しました。
そして宣教師として他にも6人の人たちと半年分の食料などを携えてどんどん奥地に入っていきました。追加の食料などが届くはずだったのですが手違いで届かず、全員が飢え死にしてしまいました。
でもそれで終わりませんでした。
第2陣が派遣されました。でもその宣教師たちは原住民に全員虐殺されてしまったのです。
でもそれでも終わりませんでした・・・
ダーウィンが初めてそのガラパゴス島を訪れてから20年後に、ダーウィンは再度その島を訪れました。
そして信じられない光景をまの当たりにしました。
なんと、ダーウィンが人間と認めなかった悪魔のような原住民たちのほとんんどすべての人たちがひざまずき神様をこころから喜び礼拝していたのです。
その光景を目の当たりにしたダーウィンは、
進化論を発展させてしまった「種の起源」を発表したことをこころから後悔したそうです。
なぜなら、人間と認められずに進化の途中のものと思っていた原住民たちが神様をこころから褒め称え礼拝している姿をみて神様は絶対におられると確信したのです。
そして、『無神論の出発点』なった「種の起源」を否定して、
神様がすべてを創造されたと確信しました。そしてその後、宣教師達の働きに多額の寄付を続けたそうです。
そして聖書を熱心に読むようになり、ついには福音を信じて神様を褒め称えたそうです。
無神論である「進化論」に対して
「創造論」は、人間は創造主である神が、神の栄光を現すために、神のかたちに人間を創造し、男と女とに創造したのです。目的をもって創造されたのです。
ですからこの目的が分からないなら人間はどのようなものを得ていても空しいのです。
人は神様の栄光のために創造された。
結論として・・・
人は神の栄光のために造られたということです。
全て存在するものには何かしら存在目的があるはずです。ピアノは音楽を演奏するために存在します。テーブルではないんですね。楽器です。車は移動するために存在します。椅子は座るために存在しています。
では、人は何のために造られたのでしょう。神の栄光のためです。
人は神様の愛の対象として最も崇高な目的のために造られました。神の素晴らしさを反映するために造られたのだというのです。
神とはどんな方ですか。気落ちしている者を励ます方、壊れたものを回復させる方、無秩序を秩序あるものに造り変える方、慰めと恵みの神です。
神の栄光とは神がなさることを神様がわたしを用いて、神の力で行ってくださることで現されます。他の人神様の愛で愛し、励まし、勇気づけ、命を躍動させるような人生が神の栄光の人生です。そのように私たちを神様の栄光をあらわすために造ってくださった、それが創造主なる神様なんです。
それでは、クリスチャンはどのようにして神様の栄光をあらわせばいいのでしょうか?
クリスチャンが神様の栄光をあらわす方法とは?
4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 ヨハネの福音書15章4~5節
イエスキリストにつながっている私たちクリスチャンは、
わたしたちを通して神様が、神様の栄光の実を実らしてくださるのです。
その実とは・・・
22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ガラテヤ人への手紙5章22~23節
御霊(聖霊なる神様)は、福音を信じたその時に私たちのうちに住んでくださったのです。
13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。 エペソ人への手紙1章13~14節
その御霊(聖霊なる神様)が、私たちを通して豊かな実を実らせてくださるのです。
しかし、
御霊の実は、(神の)愛、
(神にある)喜び、
(神にある)平安、
(神による)寛容、
(神による)親切、
(神による)善意、
(神による)誠実、
(神にある)柔和、
(神にある)自制です。
結論として
この豊かな実を実らせることが、『神様の栄光を表す』ということです。