第一歴代誌11章17-19節
ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
すると、この三人は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデはそれを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、
言った。「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んで来たのです。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。
ダビデはふるさとであるベツレヘムから離れたところで敵であるペリシテ人から身を隠していました。
ベツレヘムはペリシテ人に占拠されている状態であり、その地から離れさまよっていて困難な状態でした。
ダビデはレファイムで陣を張るペリシテ人と長い戦いをしていました。
ダビデはアドラムの洞窟を要害にして、その戦いの疲れをいやそうと腰を下ろし、しばし離れている故郷ベツレヘムで暮らした時代に思いを馳せていました。
その時ダビデは、その城門の傍らにある井戸から飲んだ水の冷たくておいしい味わいを思い起こしました。
ダビデは疲れていたのです。そして、その心が渇いていたのです。
本当に喉が渇いていたわけではないのですが、静かに平和に暮らしていた日々、あのおいしい井戸水をごっくんと飲んだ、そんな小さな想い出がとてつもなくいとおしく思えてならなくなったのです。
昔の良き時を懐かしく思いだして、
「だれか、あのベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなぁ」
と思わずつぶやいてしまいました。
その水を飲みたくて言ったのではなく、昔のよきときを懐かしく思いつぶやいただけでした。
しかし、ダビデから愛されダビデを愛していた3勇士は、
ダビデの願いを叶えたい、
ダビデの晴れない気持ちをはらして満足してほしいといつも願っていました。
その願いは、いのちの危険をおびやかすことであっても
ダビデに喜んでもらいたい満足してほしいという願いでした。
そして3人の勇士は行動をおこしました。
敵であるペリシテ人の陣営をたった3人で突き抜けて
いのちの危険をおかしてベツレヘムの門にある井戸から水を汲んでダビデのもとに戻ってきました。
しかし
ダビデはいのちの危険をかえりみず汲(く)んできた「その水」を飲むことはできませんでした。
彼らが汲んできた水は、彼らのいのちをかけた従順であり、それは主が喜ばれる、主への捧げものとなったのです。
「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』(Ⅰサムエル15:22)
聖書で「聞く」と「従う」はセットで書かれています。
私たちは今、誰と過ごし、誰の声を聞き、誰に従っているでしょうか。
誰に、また何にいのちをかけているでしょうか。
時間をかけているでしょうか。
「いのちをかける」ということは、そこに全生涯、自分のすべてを捧げるということです。
ダビデはキリストの型です。
私たちがイエス様と共に過ごし、イエス様の声を聞き、イエス様に従い、ついていくなら、私たちは主の勇士として勝利を治める者となるのです。
ダビデは過去を振り返って
「あの時は良かった」と、嘆(なげ)いてしまいました。
しかし、本当は素晴らしい『今』を生きていたのです。
➡︎ダビデのために命をかけてくれる3人の勇士がいました。
そして一番素晴らしいのは『神様が共に』いてくださったのです。
わたしたちはどうでしょうか。今が困難な中にいたら嘆いてしまいます。
そしてあの時は良かったと過去を振り返って嘆(なげ)いてしまいます。
しかし私たちはダビデよりももっと素晴らしい『今を』生きているのです。
命がけでわたしを愛してくださったのではなく、
わたしを愛してわたしの罪のために十字架でわたしの罪の刑罰の身代わりに
いのちを捨ててくださったほどの愛で愛してくださった『
イエスキリスト』が共におられるからです。
そして
わたしに対する神様の愛の約束が全て記(しる)されている
『聖書』が与えられているからです。
そしてなによりもっとも素晴らしいことがあります。
それは、今までのどんな素晴らしい信仰者たちも経験のしたことのない
素晴らしい約束をもうすぐ私たちが経験することができるからです。
『キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:21)』
もうすぐイエス様が
天に場所を備え私たちを迎えに来てくださるという
『再臨』の約束です。
そしてその時、私たちを『栄光のからだ』に変えてくださるのです。
その時は、私たちは現在のように『罪赦された罪人』
すなわち罪赦されたけれでも罪を犯してしまう罪あるものではなく、
罪を犯さない罪と戦う必要のない『栄光のからだ』に変えられるのです。
罪赦されたということだけでなく、
罪を犯さない
栄光のからだで『主とまみえ主を賛美し礼拝する』ことができるのです。
再臨の約束とは、ただイエスキリストが来られるということだけではないのです。
『キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:21)』
という素晴らしい約束です。
私たちは、困難で苦しい『今を不信仰で見る』のではなく、
『信仰で素晴らしい今を見る』ことができるのです。
そして信仰で、
もうすぐ実現する素晴らしいイエスキリストの再臨という約束を確信することができるのです。
わたしたちクリスチャンの目標が
『もうすぐわたしたちを迎えに来られる『イエスキリストの再臨』を待ち望み
そしてまだ救われるべき残されている人たちに福音を伝え、
イエスキリストにまみえる備えをすること』
であるなら何と素晴らしいことでしょう。