週の初めの⽇の明け⽅早く、彼⼥たちは準備しておいた⾹料を持って墓に来た。
⾒ると、⽯が墓からわきに転がされていた。
そこで中に⼊ると、主イエスのからだは⾒当たらなかった。
そのため途⽅に暮れていると、⾒よ、まばゆいばかりの⾐を着た⼈が⼆⼈、近くに来た。彼⼥たちは恐ろしくなって、地⾯に顔を伏せた。
すると、その⼈たちはこう⾔った。
「あなたがたは、どうして⽣きている⽅を死⼈の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。⼈の⼦は必ず罪⼈たちの⼿に引き渡され、⼗字架につけられ、三⽇⽬によみがえると⾔われたでしょう。」彼⼥たちはイエスのことばを思い出した。
ルカの福⾳書 24章1〜8節
イエス様が⼗字架にかけられ死んでしまった時、弟⼦たちは「もう全てが終わった」と思いました。
この記事の目次
イエスキリストの弟子たちは逃げることしか考えられなかった・・・
弟子たちは、これからどうしようと⾃分のことしか考えていませんでした。
ですから、⾃分がイエス様の弟⼦だと分かれば捕らえられるかもしれない。
いやへたをすると殺されるかもしれないと不安と恐れの中にいました。
ただ⾒つからないように⼊⼝に鍵をかけひっそりと⾝を隠していました。
イエス様が⼗字架にかかかって死ぬ前に弟⼦たちに何度もいわれていた⾔葉を思い出すことをしませんでした。
弟子たちが思い出さなければならなかったイエス様の約束の言葉は・・・
「⼈の⼦は必ず罪⼈たちの⼿に引き渡され、⼗字架につけられ、三⽇⽬によみがえる‧‧‧」
と何度もいわれていたことを
頭では理解していたのですが、知識としてしか記憶に残っていませんでした。
ですから、信仰で受け⼊れていなかったのです。
そして、信仰を働かせることができなかったのです。
婦人たちはできなかった埋葬の用意ができたのでしょうか。
その点、婦⼈たちはまだ死なれたイエス様のことを思い偲んでいました。
そして、埋葬の⽤意ができずに墓に葬ったことを悔やんでいたのです。
彼⼥たちはイエス様に対して何かを尽くせないかと考え、⾹料と⾹油を準備しました。
これは、イエス様の遺体を葬るために敬うための最後の奉仕として⾏われました。
そして、安息⽇が終わった翌⽇、すなわち⽇曜⽇の早朝、彼⼥たちはこれらの⾹料を携えて墓へと向かいました。
しかし、彼⼥たちの⽬的を達成することはできませんでした。
なぜなら、墓は空になっていたからです。
埋葬の用意ができたのはベタニアのマリヤだけ
※後にも先にもイエス様の埋葬の⽤意ができたのは「ベタニアのマリヤ」だけだったのです。
それも⼗字架にかかって死んでからではなく、死ぬ前に、そして⼗字架にかかることを誰も認めることができなかったときに、イエス様の埋葬の⽤意ができたのは「ベタニアのマリヤ」だけだったのです。
ベアニアのマリヤは、イエス様の⾔われたまだ起こっていない出来事を信仰で受け⼊れ信仰で⾏動したのです。
そして、このことがイエス様を⼤変喜ばせました。
イエス様は、このマリヤのしたことは福⾳がかたられるところにおいていつまでも語り継がれると⾔ってマリヤの信仰を喜ばれました。
⼥性たちは墓の⼊⼝をふさいでいる巨⼤な重たい⽯をどうしたらいいのか不安の中で、イエス様の墓を訪れました。
しかし、墓に⽴てかけてあった⼤きな⽯が、脇に転がされていたのです。
それを⾒た彼⼥たちは、墓の中に⼊りました。しかし、イエス様の体はそこにはありません。彼⼥たちは、途⽅に暮れてしまいます。
すると突然、まばゆい光が彼⼥たちを照らし、⼆⼈の御使いが、彼⼥たちに近づいて来て、こう⾔ったのです。ルカ24:5-8をお読みします。
どうして⽣きている⽅を死⼈の中に捜すのですか?
「あなたがたは、どうして⽣きている⽅を死⼈の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。⼈の⼦は必ず罪⼈たちの⼿に引き渡され、⼗字架につけられ、三⽇⽬によみがえると⾔われたでしょう。」彼⼥たちはイエスのことばを思い出した。
ルカの福⾳書 24章5〜8節
御使いは「イエス様のことばを思い出しなさい」、「あの⽅は、約束の通り、よみがえられたのです」と彼⼥たちに告げたのです。イエス様は確かに、それまでに、弟⼦たちに対して何度も何度も、話をしていました。
「わたしは多くの苦しみを受け、殺され、三⽇⽬によみがえらなければならない。」
イエス様は、⼗字架で死ぬということだけでなく、三⽇⽬によみがえると宣⾔されていたのです。
イエス様が、「わたしはよみがえる!」と希望のメッセージを語っているにも関わらず、弟⼦たちの思考は、その前の「死ぬ」という所でストップしてしまっていたのです。
「もし本当にイエス様が死んでしまったら‧‧‧」そう思うと、もうそれ以上先まで考えることが出来ない精神状態でした。だから、そんな彼らにとって、実際にイエス様が⼗字架で死なれたことは、敗北と失望ですべてが終わってしまったとしか考えられなかったのです。
私たちはどうでしょうか。
「どんなに素晴らしい約束が与えられていても、⽬の前にある苦しみや困難でもう頭がいっぱいになってしまう、そのようなことはないでしょうか。」
私たちは、誰もが苦難の時、また状況がよく理解できないような混乱の時を過ごすことがあります。
でも、そういう時こそ、彼⼥たちのように、
「イエス様の約束を思い出す必要があるのです。」
それは、
「⼗字架と復活の約束です。」
もし復活がなければ、結局のところ⼗字架は敗北だったと⾔えるかもしれません。でも、⼗字架の向こう側に、復活がある。それが私たちの希望なのです。
イエス様の⼗字架と復活は、私たちが困難を乗り越える⼀つの雛形であり、原則です。
そして、この「⼗字架と復活」こそが、イエス様が私たちにもたらした良い知らせである「福⾳の中⼼」なのです。
「福⾳」の3つのポイント
今⽇は、この「福⾳」を3つのポイントで、お伝えしたいと思います。
1:⼗字架は愛のしるし
まず第1のポイントは、「⼗字架は愛のしるし」だということです。イエス様の⼗字架は、神様の私たちへの愛の証なのです。第1ヨハネ4:9-10にはこのようにあります。
神はそのひとり⼦を世に遣わし、その⽅によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに⽰されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御⼦を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネの⼿紙 第⼀ 4章9〜10節
ここに「私たちの罪のための、なだめのささげ物」とあります。聖書によれば、私たちは⼀⼈残らず罪⼈です。私は初めて聖書に触れた時、そんな⾔い⽅をされていることにショックを受けました。
⼈を勝⼿に罪⼈扱いするなんて、何とキリスト教の教えは居⼼地の悪いものだろうと思ったのです。
でも皆さん、誰か他の⼈を指差すのではなく、そっと⾃分の胸に⼿を当てて、素直に、静かに、⾃分を振り返ってみて頂きたいのです。
誰が胸を張って、私には罪がないと断⾔できるでしょうか。
でも神様は、もうすでに、実際に私たち⼀⼈ひとりのことを、良いことも、悪いことも、すべて知っておられるのです。
神の前には、すべてのことがさらけ出されているのです。
イエス様は、その上でなお、私たちを愛していると⾔ってくださっているのです。そして、その罪が赦されるようにと、⾃ら、私たちの⾝代わりとして⼗字架にかかって死んでくださったのです。
「罪のための、なだめのささげ物」と⾔うのは、そういう意味です。イエス様は、唯⼀、罪のないお⽅としてこの地上で歩まれました。
イエス様は、私たちと同じように、すべての誘惑や試練に遭われましたが、たったひとつの罪も犯さなかったのです。
そして、この罪のないお⽅だけが、⼈類の罪の⾝代わりとして「なだめのそなえ
物」となる資格をお持ちだったのです。
皆さん。私は罪⼈です。
あの⼗字架は、本来、私がかからなければならなかったものです。
でもイエス様は、私のために、私の罪の⾝代わりとして⼗字架にかかってくださったのです。
それは、私への愛のしるしです。
イエス様は、私のために鞭打たれてくださいました。
ただの鞭ではありません。その鞭の先は幾つにも枝分かれしていて、鋭い⽯や棘やとがった⾙殻などが埋め込まれていたといいます。
そして鞭打たれるたびに、それらがイエス様の背中に突き刺さり、⾁が裂け、えぐり取られていきました。⾒るに耐えないような、⾝体的苦痛をイエス様はお受けになったのです。
イエス様は、私のために⼈々から唾をかけられ、あざけられました。
「お前が神の⼦なら、⾃分を救ってみろ」と⾺⿅にされました。
でも、イエス様は、そんな精神的な苦痛も、黙って受け取ってくださったのです。なぜでしょうか。
なぜ、そんなにまでして、苦しみを耐え抜いてくださったのでしょうか。イザヤ
53:3-5にはこのように書かれています。
彼はさげすまれ、⼈々からのけ者にされ、悲しみの⼈で、病を知っていた。⼈が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。だが、私たちは思った。神に罰せられ、打た れ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
イザヤ書 53章3〜5節
これは、神様がどのようにして私たちを救うのかということを記した、驚くべき預⾔のことばです。
皆さん、イエス様の苦しみは、私たちが、癒され、救われるためだったのです。私たちが⼗字架を⾒上げるとき、そこには、私たちの罪のために⾝代わりとなって苦しんでくださったイエス様の愛が⾒えるのです。その打ち傷のゆ
えに、私たちはいやされました。
⼗字架は、あなたへの愛のしるしです。
2:復活は希望のしるし
第2のポイントは、「復活は希望のしるし」だということです。
私は、まだ神様を知らなかった頃、このように考えたことがあります。「良いことをしても、悪いことをしても、どうせ⼈は皆、同じように死んでしまう。だとしたら、良いことをすることに何の意味があるのだろう。何かを⼀⽣懸命やることに、⼀体何の意味があるのだろう。」
もし私たちが、この地上の命にだけ⽬を留めているなら、それはとても虚しい⼈⽣だと思います。
なぜなら、結局はすべて死で終わってしまうからです。
でも聖書は、
この世界には、「永遠」という視点があるということを教えてくれています。
そして、⼈は誰でも、そのことを、⼼の奥底で感じ取って⽣きているのです。
だからこそ、⼈間は、⾊々なことに意味を求めます。⽬的を求めます。
⾃分はただ偶然にここに存在すると⾔って、割り切って考えることなどできないのです。
イエス様は、⾃らの復活を通して、この地上に「死」で終わらないいのちがあるということを、はっきりと⽰してくださいました。イエス様は⼗字架にかかられた後、三⽇⽬によみがえられました。それから40⽇間弟⼦たちとともに過ごされた後、天に昇って⾏かれました。そして、イエス様は今も⽣きておられるのです。イエス様はヨハネ11:25でこのように宣⾔しています。
わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも⽣きるのです。ヨハネの福⾳書 11章25節
イエス様ご⾃⾝が、よみがえられた、いのちの源です。
ですから、私たちはイエス様とつながることを通して、⾁体の死で終わらないいのち、永遠のいのちを得ることが出来るのです。
このいのちは、霊的ないのちです。
このいのちは、神様とともにある豊かないのちです。
そこには、意味があり、⽬的があります。
私たちは、イエス様と共に、復活のいのちに預かり、この「永遠のいのち」に⽣きることが出来るのです。
イエス様の復活は、確かに私たちが「永遠のいのち」に⽣きることができるという希望です。
復活は、希望のしるしなのです。
3:信仰は勝利のしるし
第3のポイントは、「信仰は勝利のしるし」だということです。
イエス様の⼗字架と復活は、聖書に記されている「歴史的事実」です。でも、それを単に知識として頭で理解するだけでなく、
私たちはそれを⾃分のこととして、信仰によって受け⽌める必要があるのです。第1ヨハネ5:4-5には、このようにあります。
神から⽣まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御⼦と信じる者ではありませんか。
ヨハネの⼿紙 第⼀ 5章4〜5節
信仰とは、イエス様がなされたことに対する、私たちの応答です。
そしてイエス様を、神の御⼦として信じる信仰こそが、世に打ち勝った勝利のしるしなのです。
イエス様の⼗字架は、愛のしるしです。イエス様の復活は、希望のしるしです。
そして、私たちの信仰は、世に打ち勝った勝利のしるしなのです。
私たちには
イエスキリストの⼗字架と復活という事実 と 聖書という神様のみ⾔葉による絶対的約束が与えられています。
ですからいついかなる時も、この絶対的事実と絶対的神様の約束のゆえに
イエスキリストにあって
いつも喜び、
絶えず祈り、
全てのことにおいて感謝することができるのです。