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【聖書通読 第23週2日目】祝福とのろいの境界線と、信仰による義の宣言(申命記28章ローマ10章)
神に従うことの究極の祝福と、キリストを信じる信仰だけが私たちを義とするという明確な福音を確認します。口で告白し心で信じる、純粋な信仰に立ち返ります。
【旧約】申命記 28章
申命記28章は、旧約聖書の中でも最も長く、神の契約における「祝福」と「のろい」が鮮明に対比して語られている章です。
「あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、今日私があなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、あなたを地のすべての国々の上に高く上げられる。」(申命記 28:1)
前半(1〜14節)には、神の言葉に従うときの輝かしい「祝福」が記されています。町でも野でも、家族も仕事も、出入りするすべての場面で祝福されると約束されています。しかし後半(15〜68節)には、神から離れたときに下される飢饉や病、ついには国を失うという凄まじい「のろい」が、祝福の何倍もの長さを割いて警告されています。
なぜ、これほどまでに恐ろしいのろいが語られているのでしょうか。それは神様が残酷だからではありません。
一つの例えで考えてみましょう。空高く飛ぶ「飛行機」は、航空力学という「ルール(法則)」に従っている間は、安全に空を飛び、目的地へと向かうことができます。しかし、もしパイロットが「ルールに縛られるのは嫌だ」と自由にエンジンを切り、法則を無視すれば、飛行機は必ず墜落し、大惨事となります。
神様の「のろいの警告」は、怒りに任せた罰というよりも、「わたしのもとを離れ、命の法則から外れれば、必ず滅びの法則(重力)に引きずり込まれてしまう。だから、絶対にわたしから離れてはならない!」という、親心からくる悲痛なまでの愛の叫びなのです。神の聖なる基準は、私たちが本来生きるべき「安全で祝福された軌道」を示しています。
【新約】ローマ人への手紙 10章
申命記28章で示された完璧な基準(律法)を前にすると、私たちは「すべてを守り行うことなど絶対にできない」という絶望に直面します。その絶望に対する完全な答えが、ローマ人への手紙10章に記されています。
当時のユダヤ人たちは、神の祝福を得るために、自分の努力で律法を完璧に守ろうと必死に頑張っていました。パウロはこれを「神に対する熱心さはあるが、正しい知識に基づくものではない」と指摘します。
これを分かりやすい例えで言うなら、日本からアメリカまで「太平洋を自分の力で泳いで渡ろうとしている人」と同じです。どんなに熱心に、真面目に泳ぎ続けても、人間の力ではいつか必ず力尽きて溺れてしまいます。これが「自分の行いで義(正しさ)を立てようとする」ことの限界です。
そこに、神様は「イエス・キリスト」という絶対に沈まない豪華客船を用意してくださいました。
「キリストが律法の終わりとなられたので、信じる者はみな義と認められるのです。」(ローマ 10:4)
キリストが私たちの代わりに律法を完全に守り抜き(太平洋を泳ぎ切り)、私たちが受けるべき「申命記ののろい(溺れること)」を身代わりに十字架で受けてくださいました。そして、私たちには客船に乗るための無料のチケットが差し出されています。それが「信仰」です。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:9-10)
自分の泳ぎのテクニック(行いの立派さ)を誇る必要はもうありません。ただ、「私は自分の力では溺れてしまいます。どうかこの船に乗せてください」と心で信じ、口で告白して船に一歩踏み出すだけで、誰もが完全に救われ、義とされるという豊かな恵みが宣言されているのです。
今日の薦め
私たちは時折、「最近あまり聖書を読めていないから」「失敗ばかりしているから」と、自分の行いの良し悪しによって神様の祝福が減るのではないかと不安になることがあります。つまり、再び「自分で海を泳ごう」としてしまうのです。
しかし今日の御言葉は、あなたの救いと義(正しさ)が、あなたの立派な行いによるのではなく、ただ「イエス様を信じる純粋な信仰」にのみかかっていることを教えています。あなたはすでに、キリストという絶対に沈まない恵みの船に乗せられています。自分の努力の足りなさに目を向けるのではなく、今日もあなたを乗せて進んでくださるイエス様の完璧な愛を心から信じ、「イエス様は私の主です」と口に出して告白し信頼して、安らかで喜びに満ちた一日をお過ごしください。

