
この記事の目次
心が冷えた時、失望の時に読んでほしい――エマオへの道で出会う復活の主
失望の道にも、復活の主は来てくださる
ルカ24章の中でも、とりわけ心にしみる場面があります。
それが、エマオへ向かう二人の弟子の物語です。
この場面は、ただ昔の感動的な出来事ではありません。
これは、今を生きる私たちの姿でもあります。
なぜなら私たちもまた、人生の中で「エマオへの道」を歩くことがあるからです。
失望しながら歩く二人の弟子
彼らはエルサレムを離れ、エマオへ向かっていました。
その足取りは、軽くなかったでしょう。
会話も明るいものではなかったでしょう。
彼らは失望していました。
主イエスに望みをかけていたのに、その主が十字架で死なれたからです。
彼らの中では、「もう終わった」という思いが大きくなっていました。
彼らはこう言いました。
「私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださると望みをかけていました。」
この「望みをかけていました」という言葉が胸に刺さります。
過去形なのです。
かつて望みをかけていた。
かつて期待していた。
かつて信じていた。
でも今は、その望みがしぼんで消えてしまった。
そういう響きがあります。
私たちにも「エマオへの道」がある
私たちも、エマオへの道を歩くことがあります。
期待していたのに、うまくいかなかった。
祈っていたのに、状況が変わらない。
信じていたのに、心が冷えてしまった。
前に進んでいたはずなのに、いつのまにかうなだれている。
そんな時、私たちはエマオへの道にいるのです。
外から見れば歩いているようでも、
心の中では座り込んでいるような時があります。
前へ進んでいるようでも、
魂は深く沈んでいることがあります。
「あんなに祈ったのに。」
「こんなはずではなかったのに。」
「神様はなぜ黙っておられるのだろう。」
そういう思いを抱えながら歩く道。
それが、私たちにとってのエマオです。
失望の道に、主は来てくださる
けれど、この物語のすばらしいところは、
その道に復活の主が来てくださることです。
二人の弟子は、自分たちの横に並んで歩いているお方がイエス様だと気づきませんでした。
でも主は、気づかれなくても近づかれました。
見分けられなくても、共に歩かれました。
弟子たちの失望の会話を、主は聞いておられたのです。
ここに大きな慰めがあります。
私たちは時々、
「主は私から遠いのではないか」
「こんな落ち込んだ私のそばにはおられないのではないか」
と思ってしまいます。
でも、エマオの物語はそうではないと言います。
失望しているその道に、主は来てくださる。
重たい足取りのその道に、主は並んで歩いてくださる。
主は、元気な時だけ共にいてくださるのではありません。
うなだれている時も、
力を失っている時も、
失望している時も、
その道の上で共にいてくださるのです。
主はまず、私たちの話を聞いてくださる
主は彼らに尋ねられました。
「歩きながら語り合っているその話は何ですか。」
もちろん主は全部ご存じです。
それでも、あえて尋ねられました。
それは、彼らの心を開かせるためです。
彼らの悲しみを語らせるためです。
主は私たちにも同じようにしてくださいます。
すぐに結論だけを言うのではなく、
私たちの痛みを聞いてくださいます。
失望を聞いてくださいます。
「こんなことを言っていいのだろうか」と思うような弱ささえ、聞いてくださるのです。
これは本当にありがたいことです。
私たちは人の前では強がることがあります。
「大丈夫です」と言ってしまうことがあります。
でも主の前では、無理に強く見せなくてよいのです。
悲しいなら悲しいままでよいのです。
つらいならつらいと言ってよいのです。
わからないなら、わからないと語ってよいのです。
主はそのすべてを受け止めてくださいます。
主は御言葉によって心を立て直してくださる
その上で主は、聖書からご自分について説明されました。
ここが大切です。
主は弟子たちを励ますために、ただ気休めの言葉を与えられたのではありません。
御言葉によって心を立て直されたのです。
御言葉は不思議です。
最初はよくわからなくても、
聞いているうちに、
少しずつ心の奥をあたためていきます。
弟子たちは後でこう言いました。
「道々お話しになっている間、また聖書を説明してくださった間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
何と美しい言葉でしょうか。
冷え切っていた心が、
絶望で重くなっていた心が、
主の御言葉によって燃やされていったのです。
冷えた心をあたためる主のことば
これは、寒い朝の部屋にストーブが入るようなものです。
最初はまだ寒いのです。
でも、少しずつ、少しずつあたたかくなります。
気がつくと、部屋全体がぬくもっている。
主の御言葉も同じです。
一瞬で全部変わるように見えないこともあります。
読んですぐに涙が止まるわけでもない。
聞いてすぐに悩みが消えるわけでもない。
でも主は、語りかけながら、
私たちの心を少しずつあたためてくださるのです。
だから、今もし心が冷えているなら覚えたいのです。
主の御言葉には、心を再び燃やす力があるということを。
主はご自身を示してくださる
そして、パンを裂かれた時、彼らの目が開かれました。
「ああ、この方は主だったのだ」とわかったのです。
ここにも深い意味があります。
主はただ遠くから真理を教えるだけでなく、
ご自身を示してくださるお方です。
御言葉を通して。
交わりを通して。
礼拝を通して。
祈りの中で。
主は私たちの目を開いてくださいます。
最初は見えなくても、
わからなくても、
ある時ふと、
「主はずっとここにいてくださったのだ」
と気づかされることがあります。
その時、心は大きく変えられます。
復活の主に出会うと、人は立ち上がる
その結果どうなったでしょうか。
彼らはエルサレムに引き返しました。
さっきまでうなだれて離れていった道を、
今度は喜びを持って戻っていったのです。
復活の主に出会う時、人は変わります。
状況が全部片づいたからではありません。
問題が一瞬でゼロになったからでもありません。
主が生きておられると知ったからです。
これが「エマオにて」の力です。
主が生きておられるなら、
もう絶望に支配されなくてよい。
主が生きておられるなら、
もう希望は消えていない。
主が生きておられるなら、
もう一度立ち上がることができる。
そういう力が、心の中に与えられるのです。
あなたのエマオの道にも主はおられる
私たちの人生にも、エマオがあります。
がっかりして歩く道。
沈んで歩く道。
何も見えずに歩く道。
でも、その道は主のいない道ではありません。
むしろ、そういう道でこそ、主は近くに来てくださるのです。
だから、失望している人は覚えましょう。
主はあなたのそばを歩いておられます。
心が冷えている人は覚えましょう。
主の御言葉は、あなたの心を再び燃やすことができます。
前に進む力をなくしている人は覚えましょう。
復活の主に出会う時、歩く方向が変わります。
うなだれた道が、証しの道へと変えられます。
エマオの物語は今も続いている
エマオの物語は、ただ昔の感動的な話ではありません。
それは、今の私たちにも起こる主の働きです。
主は近くにおられる。
主は語っておられる。
主は心を燃やしてくださる。
主は失望の道を希望の道へ変えてくださる。
この主は、今も生きておられます。
だから今日も祈りたいのです。
「主よ、私のエマオの道にも来てください。
重たい心を知ってください。
御言葉で私の内なる心を燃やしてください。
そして、復活の主として、私の目を開いてください。」
まとめ|静かに、しかし確かに主は共にいてくださる
ルカ24章の主は、今も生きておられます。
その主は、今日もあなたの歩く道の上で、
静かに、しかし確かに共にいてくださるのです。
ですから、どうか一人で歩いていると思わないでください。
主はあなたの失望をご存じです。
主はあなたの涙をご存じです。
主はあなたの心の冷えもご存じです。
そしてその主は、
あなたを置き去りにはされません。
失望の道にも、復活の主は来てくださる。
このことを、今日の慰めとして心に受け取ってください。


