
この記事の目次
復活の朝に主は甦られ、今も主は生きておられます。
絶望の夜が終わり、本当の朝が始まった
ルカ24章は、聖書の中でも特に希望に満ちた章です。
なぜならここには、絶望の夜が終わり、本当の朝が始まった出来事が記されているからです。
女たちは朝早く墓へ向かいました。
彼女たちの心にあったのは期待ではなく、悲しみでした。
イエス様は十字架にかけられ、死なれ、墓に葬られました。
彼女たちにとって、その朝は希望の朝ではなく、悲しみを抱えて過ごす朝でした。
香料を持って墓へ向かったのは、よみがえりを期待していたからではありません。
死なれた主に、最後の愛を示そうとしていたのです。
つまり彼女たちは、「もう終わった」と思っていたのです。
弟子たちも同じでした。
主に従ってきた日々。
奇跡を見た日々。
御言葉を聞いた日々。
「この方こそ救い主だ」と信じて歩んできた時間。
しかしその主が十字架で死なれた。
それは弟子たちにとって、あまりにも大きな衝撃でした。
彼らの中では、希望の灯が消えたように思えたのです。
けれども、神様の御計画は終わっていなかった
けれども、神様のご計画は終わっていませんでした。
墓へ行った女たちが見たのは、閉じられたままの墓ではなく、石の取りのけられた墓でした。
そしてそこには、主のからだがありませんでした。
それは「遺体がなくなった」という話ではありません。
それは、死がイエス様を閉じ込めておくことができなかったという知らせです。
御使いたちは言いました。
「あの方は、ここにはおられません。よみがえられたのです。」
なんという言葉でしょうか。
ここに福音の中心があります。
イエス様は十字架で死なれただけのお方ではありません。
墓にとどまったお方でもありません。
死を打ち破ってよみがえられた主なのです。
これが復活です。
復活とは『絶望は最後の言葉ではない』という神様の宣言
復活とは、単に「すごい奇跡があった」ということではありません。
復活とは、
絶望は最後の言葉ではない
という神様の宣言です。
人は「もう終わりだ」と思うことがあります。
もう無理だ。
これで終わった。
立ち直れない。
望みは消えた。
けれど、ルカ24章は語ります。
人が終わりだと思った場所で、神様は新しい朝を始められるのです。
見えなくても神様は働いておられる
考えてみれば、十字架の金曜日から復活の日曜日までの間、弟子たちには何も見えませんでした。
神様が何をしておられるのか、まったくわかりませんでした。
でも、見えなくても、神様は働いておられました。
私たちも同じです。
祈っても答えが見えない時があります。
涙が止まらない時があります。
先が見えない時があります。
けれど、その時も神様は働いておられます。
復活の朝は、そのことを力強く語ります。
私たちは、見えるものだけで判断しやすいものです。
状況が変わらなければ、神様は何もしておられないように感じてしまいます。
でもそうではありません。
墓の中で何も起こっていないように見えた時にも、神様のご計画は静かに進んでいました。
ですから私たちも、
「今は何も見えない」
という時にこそ、神様の働きを信じたいのです。
復活はイエス様の勝利であると同時に、私達のきぼうでもある
そして復活は、イエス様ご自身の勝利であるだけでなく、私たちのための希望でもあります。
もしイエス様が死んだままだったなら、罪の赦しも、永遠のいのちも、確かな希望もありませんでした。
しかし主はよみがえられました。
だから、十字架は敗北ではなく勝利です。
だから、罪は赦されるのです。
だから、死は最後ではないのです。
だから、信じる者には希望があるのです。
復活があるからこそ、私たちの信仰は空しいものではありません。
復活があるからこそ、苦しみの中でも顔を上げることができます。
復活があるからこそ、涙の中にも希望を持つことができるのです。
復活の朝は悲しみを希望へと変えた
復活の朝は、
悲しみの朝を希望の朝に変えました。
恐れの朝を喜びの朝に変えました。
閉ざされた心を開かれた心に変えました。
その復活の主は、今も生きておられる
そしてその復活の主は、今も生きておられます。
ここが大切です。
復活は昔の出来事で終わりません。
主は今も生きておられるのです。
だから、今の私たちにも復活の力は届きます。
冷えた心をあたためます。
沈んだ魂を引き上げます。
うなだれた目をもう一度上げさせます。
「もう終わりだ」と思うその場所で、
主は「まだ終わりではない」と語られます。
あなたの人生においても、
人間関係においても、
健康の悩みにおいても、
信仰の弱さにおいても、
「もう望みはない」と思うところがあるかもしれません。
でも、復活の主は言われます。
「わたしは生きている。」
その一言が、私たちの闇を破るのです。
復活の希望は見せかけの浅い励ましではない
復活の朝は、
「うまくいくから安心しなさい」
というような見せかけの浅い励ましではありません。
そうではなく、
たとえ十字架があっても、墓があっても、神様のご計画はそこで終わらない
という、深く力強い希望です。
ですから私たちは、絶望に言い切らせてはなりません。
悲しみに最後の言葉を与えてはなりません。
最後の言葉を持っておられるのは、死ではなく、復活の主だからです。
今日、心に刻みたい御言葉
今日、ルカ24章を通して、心に刻みたいのです。
あの方はここにはおられない。よみがえられたのだ。
この言葉は、教理の知識ではありません。
生きる力です。
立ち上がる理由です。
涙の中で握る希望です。
復活の主は、ただ昔に死に勝たれたお方ではありません。
今も生きて、今も働き、今も私たちに語りかけてくださるお方です。
まとめ――主は生きておられる。だから絶望で終わらない
復活の朝は、今も私たちに語っています。
主は生きておられる。
だから、あなたの人生も絶望で終わらない。
主にあって、もう一度立ち上がりなさい。と・・・
もし今、心が重くても。
もし今、祈りの答えが見えなくても。
もし今、先が真っ暗に思えても。
復活の主は生きておられます。
その主が、あなたの人生にも新しい朝をもたらしてくださいます。
だから顔を上げましょう。
だから望みを捨てないでいましょう。
だから復活の主を見上げて、もう一度歩き出しましょう。

