マザーテレサの名言、愛の反対は憎しみではなく無関心です。

B!

あるニュースで見つけてすごいと思えることがありました。

それは、熊本県の障がい者条例の第6条です。

そこには熊本県民の役割が書かれているのです。

そして、その趣旨がこのように続けられています。

「全ての県民が、障がい者のことを正しく理解し、障がい者に対する誤解や、偏見、無関心をなくすこと・・・

この「無関心をなくすこと」ということが記されているということはすごいことだと思います。

なぜなら、マザーテレサが言った次のような言葉があります。

マザーテレサの名言。愛の反対は?

愛の反対は、憎しみではない。

まだ相手に何かしらの感情があるということは、
救いがある。

本当に怖いのは、無関心である。

 

少し前に、大阪の西成のあいりん地区と呼ばれるところで仕事をしていて、

そこを自転車で毎日のように走っていました。

そこには、いろいろな人たちが道ばたに寝転んでいるのです。

その多くは、酒に酔っ払って寝転んでいる人たちです。

 

それはもうその地区では日常茶飯事であるがゆえに、

若い女の人たちもそのそばを平気で横切っているのです。

 

何もないかのように。全くの無関心を装っています。

 

寝転んでいる人たちも異常ですが、無関心に何事もなかったかのようにそばを通っている人たちも異常です

もちろん、その人たちを助けないことを責めているのではありません。

 

愛の反対は、「無関心」。

(すなわち、無関心とは、無視されることの苦しみです。そして哀しみです。)

 

無視されるとは、どんなに苦しいことでしょうか?

 

いじめの方法としてはいろいろの方法があるのですが、

そのなかでも大変なつらさを味わうのは、無視されることです。

もし、自分が誰からも相手にされていない、誰からも愛されていないと、確信したら、

人間は生きていけないのではないでしょうか。

 

 

わたし自身は、自分で言うのもおかしいのですが、人から憎まれたり、嫌がられるということはあまりない人間だと思っています。

しかし、それは自分が良い人だからというのではありません。

どちらかというと当たりさわりなく人との関係をとって八方美人的な誰からも嫌われないようにしているだけの人間だからです。

 

でも、こんな私でも、人生で一度だけ人から完全に無視され全く相手にされないという苦しい経験をしたことがありました。

 

そしてその相手は、職場の先輩で最初から手とり足とりいろいろなことを指導してもらった尊敬していた人でした。

 

私を可愛がってすごく親切にしてくれた人でした。

 

私はまったくなぜか理由がわからなかったのですが、ある日いきなり私が声をかけてもまったく無視、

目も合わせてもらえませんでした。

もちろん相手から声がかかるということもありませんでした。

そして、いくら話しかけても返事が返ってこないと、もう話しかけることもできなくなりました。

 

職場は、大学を出て、希望に燃えて入社したのはスーパーで日本一の会社でした。

(その当時は小売業で日本一の売り上げを誇っていました。)

 

しかし、配属先は、全く予期しなかった部署でした。

そこは鮮魚売り場 魚屋でした。

魚を1日さばいていると服や身体中が魚臭くて大変でした。

昼に社員食堂に行って昼ごはんを食べる時も、

まわりの人には少し距離をおかれます。魚くさいからです。

それでも、将来は世界をまたにかけて飛び回って魚を買い付けるバイヤーになることが夢でした。

 

しかし、最初は包丁を握って魚をさばくという仕事をしていました。

 

ですから、わたしを相手にしてくれない先輩と向き合っていろいろな魚をさばいたりしなければなりませんでした。

すぐ前でこちらを向いて作業をしているので、話してもらえないということは大変な苦痛でした。

 

そんな日が3日続くと、もう職場に行くのが苦しくなっていました。

そして、胃が痛くてたまらなくなったりもしました。

そして、ついに何日目かに、職場の責任者に体調が悪いので休みますとうその電話をして、ずる休みをしてしまいました。

 

一日中、外をぶらぶらして家に帰りました。

そのときは、結婚をまだしていなかったので母親と住んでいたのですが、家に帰ると、

職場の主任から電話があったとのこと。

 

『体調はどうですか?』

 

との問い合わせでした。バレてしまいました。

 

しまったと思いました。

 

せっかく入社した念願の大企業で給料も案外もらっていました。

ですから、やめるわけにはいきません。

 

しかし、

どうすることもできずに、最後の手段と思って、

わたしを無視している先輩に面と向かって、思い切って『なぜ話しをしてくれないのですか。すいません、おしえてください。』

って聞きました。

 

「私に悪いところがあるのなら改めるので教えてください。」と何度も頭を下げて何度も頼みました。

無視されていたと思っていた私が先にその人を無視していたのです。

すると先輩は話してくれました。

 

それは、私は全く覚えていないことだったのですが、

どうも仕事のことで私が先輩に相談したことがありました。そのときに先輩が一生懸命考えてアドバイスをくれたのに私が先輩のアドバイスと違うことをしてしまったのです。

 

先輩は、せっかく親身になって必死になって考えてアドバイスしてくれたのに、私が全く別のことをして、

まず私が先輩を無視してしまったのです。

先輩にしたら、可愛がっていろいろ面倒を見ている後輩から裏切ら無視されたと思い相当辛かったそうです。

 

無視されて辛い思いをした私が、まず先輩を無視して嫌な思いにさせていたのです。

でも、私は、覚えていませんでした。

覚えていないということは余計に相手をムカつかせることですが、私はとにかく心から謝りました。

そんな嫌な思いをさせていたということを心から謝りました。

 

それで、なんとか納得してくれてまたもう一度以前のような関係に戻ることができました。
でも、その職場での無視される状況がもっと続いていれば、精神的に病んでしまっていたと思います。そのことだけで、職場をやめていたかもしれません。

それほど、人は無視されたり、人に相手にされなかったりすることほど辛い苦しいことはないのです。

の反対は憎しみではなく、無関心である。」

 

わたしがどんなに無視しても、絶対に無視せずに真実な愛で愛し続けてくださる方がいます。

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
聖書 ヨハネの福音書1章9節〜11節

 

この方とは、救い主としてこの地上に人となって来られたイエスキリストのことです。
世はこの方を知らなかった。神様が人となって私たちの救いを達成するためにこの世に来てくださったのに、世(この世を構成している私たち)はこの方を知らなかった。
なんと悲しい言葉でしょう。知らないとは関心がなかったということです。
そして、ご自分の民(神様の愛の対象である私たち)は、この方を受け入れなかった(無視して、拒絶した)。
神様への最大の罪は、神様を神様と認めず、無視し、逆らい、刃向かうことです。
イエスキリストの十字架の愛に無関心であり、無視することほど神様を悲しませることはありません。

『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。』 (聖書 ヨハネの福音書1章12節) 

 

しかし、この方(イエスキリスト)を受け入れた人々、すなわちイエスキリストを救い主、神の御子と信じるなら、神の子供とされる特権(罪の赦しと永遠のいのちの保証)をお与えになった。という素晴らしい約束が与えられています。

 

どうか、イエスキリストの十字架の愛に無関心にならないでください。
そして、神様の愛を無視しないでください。

あなたを愛してあなたの罪の刑罰の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエスキリストの救いを無駄にしないでください。

最新の記事はこちらから