聖書通読【第40週 3日目】悪巧みをも支配する神の「絶対的な主権」と、確実な裁きを前にした「恵みの救助船」

神様が単に「後出しジャンケン」でサタンに勝つのではなく、「最初からすべてを完全に統治しておられる」という絶対主権と、恵みによって救われた者の「必然的なきよい歩み」をより鮮明にしています。

この記事の目次

聖書通読【第40週 3日目】悪巧みをも支配する神の「絶対的な主権」と、確実な裁きを前にした「恵みの救助船」

(聖書箇所:第二サムエル記 17章 / ペテロの手紙 第二 3章)

聖書通読第40週3日目です。 今日は、人間の悪意もサタンの策略も、すべては「神の絶対的な主権」の御手の中にあるという壮大な真理を学びます。そして、その主権者なる神が与えてくださった十字架の恵みが、私たちの人生にどれほど確かな「きよい歩み」をもたらすのかを、より深く見ていきましょう。

1.第二サムエル記 17章 —— 神の「絶対的な主権」による支配

アブシャロムに寝返った天才的な軍師アヒトフェルは、「今夜すぐにダビデを追撃して、ダビデ一人だけを打ち取りましょう」という、恐ろしいほど的確で完璧な作戦を立てました。ダビデは絶体絶命のピンチに陥ります。

しかし、ここで神様の「絶対的な主権」が働きます。神様は、ダビデの友であるフシャイの口を通して別の作戦を提案させ、アブシャロムにアヒトフェルの完璧な作戦を却下させました。 なぜこのような奇跡が起きたのでしょうか。聖書はこう断言しています。

「主が、アブシャロムにわざわいをもたらすために、アヒトフェルの良いはかりごとを打ち破るように命じておられたからである。」(2サムエル 17:14)

■ 盤面そのものを支配する神様

神様は単に「相手の動きを見てから、もっと賢い手を打ち返す後出しジャンケンの達人」ではありません。 神様は「ことの成り行きや結果も、さらには相手(サタンや悪人)の駒の動きすらも、ご自身の栄光のために完全に支配しておられるお方」なのです。相手の悪意すら、神様の永遠の計画を完成させるための道具に過ぎません。

この「神の絶対的主権」の頂点が、イエス・キリストの十字架です。 サタンと悪人たちは、罪のないキリストを十字架につけて「神の計画を打ち砕いた!」と勝ち誇りました。しかし、それこそが神様の「定めた計画と予知(使徒 2:23)」でした。神様は、人間の最も恐ろしい悪意(全的堕落)すらも完全に支配し、御子キリストが身代わりとなって神の怒りをなだめるという「十字架の贖い」を成し遂げられたのです。 あなたの人生に襲いかかるピンチも、決して神様のコントロールを外れた事故ではありません。主権者なる神様の御手の中で、必ずあなたへの恵みと成長のために用いられます。

2.ペテロの手紙 第二 3章 —— 裁きの確実性と、忍耐の「救助船」

新約のペテロの手紙第二3章では、この歴史のゴールである「主の日(キリストが再び来られる裁きの日)」について語られます。

世のあざける者たちは、「キリストが来るなんてウソだ。世界はずっと変わらないじゃないか」と嘲笑します。なぜ彼らはそう言うのでしょうか。ペテロは「彼らが自分の欲に従って歩んでいるからだ(3:3)」と指摘します。彼らは、自分の罪(肉の生活)を手放したくないために、神の裁きなど無いと自分に言い聞かせているだけなのです。

しかしペテロは、神の約束の真意をこう語ります。

「主は…あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、だれひとり滅びることなく、すべての者が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ 3:9)

■ 選びの民を待つ救助船

想像してみてください。やがて火の裁きによって完全に沈没することが決まっているこの世界から、人々を助け出す「巨大な救助船(十字架の恵み)」があります。船長である神様が、出発の汽笛を鳴らすのを遅らせているのは、神が裁きをためらっているからではありません。 「神が永遠の昔から選んでおられた救われるべき魂が、最後の一人までこの船に乗り込むのを、深い愛をもって待っておられるから」です。

しかし、その愛の忍耐の期間は永遠には続きません。「主の日」は盗人のように突然やって来ます。その日、古い世界は神の聖なる火によって焼き尽くされ、罪が一切ない完全な「新しい天と新しい地」がやって来ます。神の裁きは、救いと同じくらい確実なのです。

3.今日の恵みの歩み(適用)—— 真の恵みがもたらす「きよい歩み」

では、この主権者なる神様によって救助船に乗せていただいた(救われた)私たちは、今日どのように生きるべきでしょうか。 ペテロは、「きよい行いと敬虔な生活」(3:11)を送りなさいと勧めています。

真の恵み(100%の救い)は、私たちを罪の海に留まらせることは絶対にありません。 「新しい天と新しい地」に行くことが約束されている(恵みに座る)真の信者は、必ず、その行き先にふさわしい「きよい歩み」を熱望するようになります。

「救われているから、何をしてもいい」というのは、偽物の信仰です。本物の信仰は、罪の海から救い上げてくださったキリストの圧倒的な愛を知っているからこそ、「この素晴らしい主権者なる神様に従順に従い、喜ばせたい」という強い『意志』が湧き上がってくるのです。

自力で歯を食いしばる苦行ではなく、私たちの内に住まわれる聖霊なる神様の力(恵みの供給)によって、今日、神様の御心に沿った「きよい歩み」へと力強く立ち上がリましょう。 神様の絶対的な主権の見えざる手が、今日もあなたを聖化(成長)へと導き、しっかりと守ってくださっています。

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