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【聖書通読第33週5日目②|第一サムエル8章・第二テサロニケ3章】人生のハンドルを握ってくださる神 —— 「従えたから救われる」のではなく、「救われたから恵みの中を歩む」
第一サムエル記8章と第二テサロニケ人への手紙3章を読むと、「神様に徹底的に従わなければ、本当には救われていないのではないか」と考えてしまうかもしれません。
しかし、福音の出発点はそこではありません。
私たちは、人生を完全に神様へ明け渡すことができたから救われるのではありません。
罪人である私たちには、完全に従うことなどできません。
だからこそ、イエス・キリストが私たちのために十字架で死に、復活してくださいました。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」
(エペソ2章8節)
救いは、私たちが神様に差し出す「献身の代価」ではありません。
神様から無償でいただく「賜物」です。
この福音を土台として、二つの箇所を読んでみましょう。
【旧約】第一サムエル8章 —— それでも神は恵みをもって民を導かれる
イスラエルが求めた「目に見える王」
第一サムエル記8章で、イスラエルの民はサムエルに、
「今、私たちをさばく王を立ててください。他のすべての国民のように。」
と求めました。
神様はサムエルに、
「彼らが退けたのはあなたではなく、彼らの王であるわたしを退けたのだ。」
と語られます。
イスラエルには、目に見えない神様を信頼するより、目に見える王を持つほうが安心に思えたのでしょう。
これは私たちにもよく分かります。
将来が不安になれば、お金があれば安心できると思います。
人間関係が不安になれば、誰かに認めてもらえれば安心できると思います。
病気や老後が不安になれば、自分ですべてをコントロールできれば安心だと思います。
私たちは何度も、神様より「目に見えるもの」に安心を求めます。
しかし、ここで大切なのは、
「そんなあなたでは救われない」という話ではない
ということです。
むしろ聖書が明らかにするのは、人間がどれほど弱く、神様以外のものに頼りやすい存在であるかという現実です。
だから私たちには「自分の献身」ではなく、神様の恵みが必要なのです。
「ハンドル」のたとえを少し変えてみましょう
よく、
「イエス様を信じるとは、自分が握っている人生のハンドルを完全にイエス様へ渡すことです。」
という説明がなされます。
クリスチャンとして神様を信頼し、人生を神様に委ねていくことは、とても大切です。
しかし、それを救われるための条件にしてはいけません。
もし、
「人生のすべてのハンドルをイエス様に渡せた人だけが本当に救われている」
と言うなら、私たちは自分に問いかけなければならなくなります。
「私は本当に全部渡しただろうか。」
「まだ自分で握っている部分があるのではないか。」
「献身が足りないなら、私は救われていないのだろうか。」
そうすると、救いの確信の根拠が、
キリストが何をしてくださったか
ではなく、
私がどれだけキリストに従えたか
へ移ってしまいます。
Free Graceの福音が見つめるのは、私たちの握力ではありません。
キリストの十字架です。
イエス様は言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。」
(ヨハネ6章47節)
「完全に献身した者」ではありません。
「人生を完全に明け渡せた者」でもありません。
「信じる者」です。
救いとは、私たちが人生のハンドルを上手に手放せたことへの報酬ではなく、キリストを信じる者に神様が無償で与えてくださる永遠のいのちなのです。
それなら、好き勝手に生きてもよいのでしょうか
ここで当然、一つの疑問が出てきます。
「信じるだけで救われるなら、その後は好き勝手に生きてもいいのでしょうか。」
いいえ。
しかし、その理由は、
「従わなければ救いを失うから」
ではありません。
また、
「従わないなら、最初から救われていなかった証拠だから」
と単純に決めつけることでもありません。
救われた私たちは、すでに神様の子どもとして愛されています。
だからこそ、
「これほど愛してくださった神様を、もっと信頼して歩みたい」
という新しい動機が生まれるのです。
順番が大切です。
服従 → 救い
ではありません。
信仰 → 恵みによる救い → 感謝から生まれる服従
なのです。
【新約】第二テサロニケ3章 —— 救われるためではなく、救われた者として働く
第二テサロニケ3章では、パウロは非常に現実的な問題を扱っています。
教会の中に、仕事をせず、落ち着かない生活をしている人々がいました。
そこでパウロは、
「働きたくない者は食べるな。」
と教えます。
これは、
「働かない人は救われない」
という意味ではありません。
永遠のいのちを得る条件について語っているのではなく、すでに信仰共同体の中にいる人々の日々の歩みについて教えているのです。
救いは恵みによって与えられます。
しかし、恵みは私たちの人生を無意味にするものではありません。
むしろ、
「私は神様に愛されている。」
「永遠のいのちをいただいている。」
「私の将来はキリストによって保証されている。」
という安心があるからこそ、今日という一日を大切に生きることができます。
日常の仕事も「感謝の応答」になる
職場での仕事。
家事。
料理。
掃除。
子育て。
介護。
人との約束を守ること。
困っている人に優しい言葉をかけること。
それらを行ったから救われるのではありません。
それらを完璧にできたから「本物のクリスチャン」と認定されるのでもありません。
私たちはすでに、キリストによって受け入れられています。
だから、
「今日も愛してくださっている神様に感謝して、この仕事をしよう。」
と思えるのです。
これが恵みから生まれるクリスチャン生活です。
「王を待つ庭師」のたとえ
ある王様に仕えている庭師を想像してみましょう。
王様は遠くへ旅に出る前に庭師へ言いました。
「この庭をよろしく頼む。」
庭師は王様から愛され、信頼されていました。
ある日、
「王様がもうすぐ帰って来られる。」
という知らせが届きました。
庭師は、
「では、もう仕事をしなくてもいい。」
と言って道具を放り出すでしょうか。
そうではないでしょう。
花に水をやります。
雑草を抜きます。
木を整えます。
しかし、その庭師が一生懸命働くのは、
王様の家族にしてもらうためではありません。
すでに王様に受け入れられているからこそ、
「王様が帰って来られたら喜んでいただきたい。」
と思って働くのです。
これが恵みの生き方です。
「ねばならない」から「したい」へ
Lordship Salvation的な表現が強くなりすぎると、クリスチャン生活が、
「もっと従わなければ。」
「もっと献身しなければ。」
「もっと自分を明け渡さなければ。」
「そうでなければ私の信仰は偽物かもしれない。」
という不安に支配される危険があります。
しかし福音は、まず私たちをキリストの完成された御業へ目を向けさせます。
十字架でイエス様は、
「完了した。」
と言われました。
私たちが付け加えなければ完成しない救いではありません。
だからクリスチャン生活の中心は、
「救われるために頑張る」ことから、「救っていただいたから感謝して生きる」ことへ変わります。
「従わなければならない」だけではなく、
「こんな私を救ってくださった神様を、もっと信頼したい。」
「神様に喜んでいただけるように生きたい。」
という愛と感謝の応答になっていくのです。
今日の神様からの奨め —— ハンドルを握れない日にも、恵みは変わらない
今日、あなたは人生のすべてを神様に委ねられているでしょうか。
おそらく私たちは誰一人として、
「はい。100%完全に委ねています。」
とは言えないでしょう。
恐れます。
迷います。
自分で何とかしようとします。
神様より目に見えるものを頼ってしまうこともあります。
それでも、キリストを信じる者に与えられた永遠のいのちは、私たちの今日の出来具合によって支えられているのではありません。
キリストの十字架と復活によって支えられています。
だから安心して、今日また神様のところへ帰ればよいのです。
「主よ、また自分でハンドルを握ろうとしていました。」
「あなたをもっと信頼できるように助けてください。」
そう祈りながら、一歩ずつ歩めばよいのです。
完全に委ねられたから愛されるのではありません。
すでに愛されているから、少しずつ委ねることを学んでいくのです。
完全に従えたから救われるのではありません。
救われているから、感謝をもって従うことを学んでいくのです。
これが「恵み」から始まるクリスチャン生活です。
今日もあなたの救いの確信を、自分の献身の程度ではなく、あなたのために十字架で死に、よみがえってくださったイエス・キリストの完成された御業に置いてください。
そして、
「救われるために今日を頑張る」のではなく、「すでに救っていただいた喜びから今日を生きる」。
そんな恵みの一日を歩ませていただきましょう。
今日考えてみたいこと
「私は十分に神様に従えているだろうか」ではなく、「すでに私を救ってくださった神様の恵みに、今日はどんな小さな感謝で応答できるだろうか」と考えてみませんか。

