【第36週 5日目】「正しさの槍」を神に預け、キリストの完全な「安息」に身を委ねる

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【第36週 5日目】「正しさの槍」を神に預け、キリストの完全な「安息」に身を委ねる

【旧約聖書】第一サムエル記 26章 —— 自力で決着をつける「槍」を神様に預ける

第一サムエル記26章で、ダビデに再びサウル王を討ち取る絶好のチャンスが訪れます。サウルとその軍勢は、神様が下された深い眠りに落ちて無防備な状態でした。部下のアビシャイは「今こそ神様が敵をあなたの手に渡されました。槍で彼を大地に突き刺させてください」とダビデに強く迫ります。
しかし、ダビデは再びこれを退けます。「主に油注がれた方に手を下して、罰を免れる者はいません。主ご自身が彼を打たれます」と語り、サウルの枕元にあった「槍と水差し」だけを持ち去りました。
【例え:「論破の決定打」を撃たずに立ち去る勇気】
相手の致命的なミスや弱みを握り、世間の目から見ても「あなたが反撃(復讐)して当然だ」という状況があるとします。あなたの手元には、相手を完全に打ち負かす「正論という槍」が握られています。しかしダビデは、その槍を振り下ろす権利を放棄しました。
私たちが自分の力で相手を制圧し、白黒をつけようとする時、私たちは「自分が神(裁判官)になる」という罪を犯しています。ダビデは槍を持ち去ることで「私はあなたを害する意志はない」という事実だけを提示し、最終的な決着は絶対的な主権者である神様に完全にお委ねしたのです。自分自身の力で状況をコントロールするのをやめ、神様の裁きを信頼して待つことこそ、真の信仰の姿です。

【新約聖書】ヘブル人への手紙 4章 —— 自力の労苦をやめ、キリストの「安息」に倒れ込む

旧約で「自力の解決を手放す」姿を見た後、新約のヘブル人への手紙4章では、私たちがどのようにして「神の安息」に入れるのかが語られます。
著者は「神の安息に入るように努めなさい」と語ります。これは矛盾しているように聞こえますが、その意味は「自分のわざ(自力で自分を立派に見せようとする努力)を休んで、キリストが完成させた救いに完全に寄りかかりなさい」ということです。神の言葉は両刃の剣のように鋭く、私たちの心の中にある「自己正当化」や「見栄」をすべて丸裸にします。
しかし、私たちが丸裸にされて絶望で終わらない理由が、後半に語られます。
「私たちの大祭司(キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みられたのです。」(ヘブル 4:15)
【例え:すべてを見透かすレントゲンと、同じ病を克服した名医】
神の言葉は、私たちの心に隠された罪や傲慢さをミリ単位で映し出す「超高性能なレントゲン」です。その結果を見ると、私たちは自分の罪深さに絶望し、神様から隠れたくなります。
しかし、その診断結果を持って座っているのは、冷酷な裁判官ではありません。私たちと同じ「人間の弱さ、裏切り、孤独、痛み」という過酷な環境をすべて経験し、ご自身の命と引き換えに完全な治療法(十字架の赦し)を完成させて待っている「最高の名医(キリスト)」なのです。
だからこそ私たちは、自分を立派に見せる努力(自力の行い)をやめ、ありのままのボロボロの姿で「恵みの御座」に大胆に近づくことができるのです。

今日、私が実践すべき恵みの歩み

  • 「自分が白黒つける」という槍を神様に預ける

    今日、あなたを理不尽に責めたり、傷つけたりする人に対して「言い負かしてやりたい」「自分が正しいと証明したい」という衝動(槍)に駆られたら、ダビデのようにその槍を静かに下ろしてください。正義の執行を神様に委ね、心の王座を明け渡しましょう。
  • 恵みの御座へ、ありのままの弱さを持っていく

    「クリスチャンとしてもっと立派に振る舞わなければ」という重い鎧を脱ぎ捨ててください。キリストはあなたの弱さや疲れを痛いほど分かってくださっています。「主よ、私は今こんなにも自己中心的で、疲れています」と、見栄を張らずにそのままの心を恵みの御座(キリストの足元)に注ぎ出しましょう。そこには非難ではなく、豊かなあわれみと、時にかなった助けが必ず備えられています。

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