
こんにちは。
今日もこの聖書の御言葉ブログに来て下さってありがとうございます。
世のニュースが騒がしくなり、先行き不透明な時代になればなるほど、私たちクリスチャンの間でも「世の終わり」という言葉が現実味を帯びて聞こえてくるようになります。しかし、聖書が語る「終わりの日」の本質は、私たちを震え上がらせることではありません。
ルカの福音書21章を通して、主イエスが私たちに手渡してくださった「絶対的希望」の約束を、ご一緒に深く味わってみましょう。
この記事の目次
【主の再臨】世の終わりはクリスチャンにとって「恐怖」ではなく、「絶対的希望」の完成である
1. なぜ私たちは「終わりの日」を恐れなくてよいのか
「終わりの日」という言葉を聞いて、真っ先に「怖い」と感じてしまうのは無理もありません。イエス様もこの章で、戦争、暴動、大きな地震、飢饉、疫病、そして恐ろしい天のしるしについて語られました。これらは、現代の私たちがニュースで見聞きしている光景そのものです。
世のパニックと、聖書が語る「しるし」の真意
世の人々にとって、これらの出来事は「破滅へのカウントダウン」に見えるでしょう。しかし、主がこれらを予告された真意は別にあります。 聖書は、これらの苦しみをしばしば「産みの苦しみ」と表現します(マタイ24:8)。新しい命が誕生する直前、母親は激しい陣痛を経験しますが、その痛みは「滅び」のためではなく、愛おしい「新しい命」に出会うためのプロセスです。
同様に、世界が激しく揺れ動くのは、この古くなった世界が幕を閉じ、神様の栄光に満ちた新しい天と地が誕生しようとしている「陣痛」なのです。私たちは、痛みだけを見るのではなく、その先に生まれる「完成された神の国」を見つめるように招かれています。
恐怖を追い出す「完全な愛」の約束
「愛には恐れがありません。全うされた愛は恐れを締め出します。」(第一ヨハネ4:18)
私たちが再臨を恐れない最大の理由は、戻ってこられる主イエスが、私たちのために命を捨ててくださった「最高の愛の主」だからです。
もし、再臨の主が「粗探しをして罰を与える裁判官」としてだけ来られるなら、私たちは震えるしかありません。しかし、主は「花婿が花嫁を迎えに来るように」、あるいは「親が迷子になった我が子を見つけ出し、抱きしめるように」して来られます。
「Jesus died for me!」――この十字架の愛によって、イエスキリストを主とし救い主と信仰によって受け入れた私たちの罪はすでに赦され、神様の子としての身分が保証されています。
ですから、私たちは裁きを待つ被告人ではなく、救出を待つ愛する家族として、その日を待つことができるのです。
2. 形あるものの崩壊は、永遠の完成へのプロセス
イエス様がこの話をされた場所は、当時の人々が誇りとしていた壮麗なエルサレム神殿でした。
エルサレム神殿の崩壊と、私たちの「目に見える依存先」
人々が神殿の美しさに見惚れている中で、主は「石が一つも崩されずに残ることはない」と言われました。これは当時のユダヤ人にとって、世界が終わるほどのショックな言葉でした。
私たちは今、何に心を奪われているでしょうか。安定した仕事、健康、立派な会堂、あるいは自分の築いてきた実績……。それらは素晴らしいものですが、神様の永遠のご計画から見れば、すべては「いつか取り去られる影」にすぎません。
古い神殿が壊されたのは、目に見えない「真実の神殿」であるキリストご自身、そして聖霊の住まいである私たち信者の群れへと、信仰の軸を移すためでした。
形あるものが揺らぐとき、それは神様が「永遠に揺るがないもの」だけを私たちの手に残そうとしておられる、愛の訓練なのです。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びない」という最強の保証
「草は枯れ、花は散る。だが、私たちの神の言葉は永遠に立つ。」(イザヤ40:8)
イエス様はルカ21:33で、「天地は滅びますが、わたしの言葉は決して滅びません」と断言されました。 たとえるなら、世界中のコンピュータが故障し、すべての銀行口座が凍結され、紙の契約書が燃え尽きたとしても、神様があなたに発行された「天の御国のパスポート」と「救いの契約」だけは、1ミリも損傷を受けないということです。 この世のシステムが崩壊すればするほど、私たちが握っている聖書の約束という「最強の保証書」の価値は高まっていきます。私たちは、最も価値が暴落しない資産を、すでに手にしているのです。
3. 「目を覚ましている」とは、恋い焦がれて待つこと
主は「目を覚ましていなさい」と繰り返されました。この言葉を、私たちはどう受け取っているでしょうか。
「義務」としての監視ではなく、「愛」ゆえの待ち望み
「目を覚ましていなさい」とは、試験監督がカンニングを見張るような、息苦しい監視のことではありません。 それは、「遠距離恋愛中の恋人が、空港に到着する愛する人を待つ」ような心の状態です。あるいは、仕事で遅くなるお父さんの帰りを、窓の外を見つめながら待つ子どもの姿です。 「いつ帰ってくるかな?」「もうすぐかな?」と、胸を躍らせて待つこと。これが聖書の語る「目を覚ましている」という状態です。もし私たちが「まだ来ないでほしい」と思っているなら、それは主との愛の対話よりも、この世の楽しみに心が奪われているサインかもしれません。再臨を待ち望む心は、主との親密な関係のバロメーターなのです。
心を鈍らせる「思い煩い」から、霊的な感度を取り戻す
イエス様は、私たちの心が「この世の思い煩い」で鈍くなることを警告されました。 「鈍くなる」とは、スマホの画面にヒビが入って操作しづらくなったり、レンズが曇ってピントが合わなくなったりする状態に似ています。
世の中の不安なニュース、日々の生活の心配、人間関係の軋轢……それらが私たちの心を覆い隠すと、すぐそばにおられる主の臨在が見えなくなってしまいます。
だからこそ、私たちは意識的に「上を見上げる」必要があります。ニュースを見る時間を少し減らし、御言葉を味わい、静かに祈る時間を持つこと。それが、曇った窓を拭き、霊的な感度をクリアに保つ秘訣です。
4. 再臨はクリスチャンにとっての「最高のハッピーエンド」
ルカ21:28には、非常に力強い言葉が記されています。
「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」
「贖いの時が近づいている」――身をのけぞらせて喜ぶ理由
世の人が恐怖で腰を抜かし、うなだれているときに、キリストにある者は「身を起こし、頭を上げなさい(のけぞるほど見上げなさい)」と言われています。 なぜなら、それは私たちの「贖い(救い)」が完成する時だからです。 たとえるなら、戦地に取り残されていた捕虜が、味方の救出ヘリコプターが空に現れたのを見た瞬間の喜びです。爆音や地響きは、敵にとっては滅びの音ですが、捕虜にとっては「救いの音」です。 私たちの全生涯をかけた信仰の戦いが終わり、涙がすべて拭われ、完全に自由になる。その瞬間が近づいているのですから、私たちは喜びのあまり「のけぞる」しかないのです。
神様との関係が「完成」する、全宇宙的な祝祭の日
今は鏡に映るぼんやりした姿を見るような信仰ですが、再臨の日、私たちは主と「顔と顔を合わせて」会うことになります(第一コリント13:12)。 「Jesus died for me!」と唱え、見ずして信じていたあの主が、目の前に現れる。その手に刻まれた釘跡を見たとき、私たちの心はどれほどの感動で満たされるでしょうか。
再臨は、歴史の「終わり」ではありません。神様と人間が、本来あるべき姿で完全に結ばれる「永遠の祝祭の始まり」なのです。
5. まとめ:今日から始まる「希望のカウントダウン」
私は、47年前のあの日(私がイエスキリストを信じ救われた日)から、主の信実に支えられて歩んできました。そして今、かつてないほど「主の再臨」という約束の実現に近づいています。
「終わりの日」を恐れる必要はありません。それは、あなたが心から愛し、あなたを命がけで愛してくださったお方が、あなたを迎えに来てくださる日だからです。 今日、私たちはこう祈りましょう。 「主よ、あなたの約束は揺るぎません。世が揺れ動くときこそ、私はあなたを見上げます。マラナ・タ(主よ、来てください)。あなたの愛の中で、今日を精一杯、喜んで生きていきます。」
私たちの人生は、最高のハッピーエンドに向かっています。さあ、胸を張り、頭を上げましょう。私たちの救い主は、もうすぐそこまで来ておられます。
