恵みにあぐらをかかない信仰——キリストの愛に応答し、「座り・立ち・歩む」恵みの連鎖
エペソ人への手紙2章が教える「座り・立ち・歩む」というダイナミックな信仰の姿を解説いたします。

この記事の目次

恵みにあぐらをかかない信仰——キリストの愛に応答し、「座り・立ち・歩む」恵みの連鎖

はじめに:エペソ人への手紙が教える、信仰のダイナミックな3つの姿勢

エペソ人への手紙2章1節から10節には、キリスト教の福音の最も美しく、かつダイナミックな真髄が凝縮されています。私たちの信仰生活は、決して停滞したものでも、逆に自力で走り回り続ける苦行でもありません。
①それは、キリストの愛に圧倒されて「座り」、
②聖霊の力によって「立ち」、
③神様のご栄光のために「歩む」
という、美しく連動したステップ(恵みの連鎖)なのです。この完全な恵みと、それに呼応する私たちの「意志」の関係性を紐解いていきましょう。

1.100%の恵みに「座る」—— 十字架と復活による完全な安息

■ 怒りの子から恵みの座へ

私たちは本来、生まれながらにして罪の中に死んでおり、神様から御怒りを受けて当然の者、「怒りの子」でした(エペソ2:3)。私たちの内側には、神様に受け入れられるような「立派な行い」や「功績」など何一つなく、自力で天国への階段を登ることは絶対に不可能な状態でした。
しかし、あわれみ豊かな神様は、そんな底なしの絶望にいた私たちを深く愛し、一方的な「100%の恵み」によって救い出してくださったのです。イエス・キリストの十字架の血潮と、死に打ち勝った復活のゆえに、ただ信じる信仰によって、完全な罪の赦しと永遠のいのちが与えられました。

■ キリストが完了された「罪の赦しと永遠のいのち」にくつろぐ

この救いは、私たちの行いや努力(自力のポンプ)によるものでは決してありません。ですから、私たちの信仰生活の第一歩は、自分が何かをするために走り回ることではなく、キリストがすでに完了してくださった救いのみ座に「座る」ことから始まります。
「座る」とは、完全な安息です。自力の重いトランクを下ろし、「私はもう100%赦され、永遠に愛されている」という十字架の特等席で、ゆったりと憩うのです。私たちのすべての信仰の歩みは、この「恵みに座る」という絶対的な安心感の土台からしかスタートすることはできません。

2.神様の力によって「立つ」—— 恵みにあぐらをかかない信仰

■ 恵みは「自分勝手な悪用」や「何もしないこと」の免罪符ではない

しかし、神様が私たちを天のみ座に座らせてくださったのは、私たちが「恵みの上に胡座(あぐら)をかいて、ただ座ったまま動かないようにするため」ではありません。
「私はもう赦されているから、何をしてもいいんだ」と恵みを自分勝手に悪用して罪に居座ったり、「神様が全部やってくれるから、私は何もしなくていい」と霊的な無気力に陥ったりするためではないのです。恵みは、私たちを甘やかして堕落させるものではなく、私たちを真に生かすためのものです。

■ 自動操縦ではなく、愛を知ったからこそ湧き上がる「従いたいという意志」

私たちが、十字架の圧倒的な恵みと愛を本当に知った時、私たちの内側には必ずある変化が起こります。それは、「こんなにも私を愛し、命まで投げ出してくださった神様のために、私も生きたい」「この素晴らしい神様に従いたい」という純粋な『意志』の芽生えです。
神様は私たちをロボットのように自動操縦し、私たちの心などお構いなしに勝手に動かすことはなさいません。十字架の愛によって氷のように固い心が溶かされ、そこから自然と湧き上がる「従いたいという意志」を何よりも待っておられ、大切にしてくださるのです。

■ 自分の力ではなく、神様の力によって立ち上がる

「神様、あなたの恵みにお応えして生きたいです」——この意志を働かせた時、私たちは自力で歯を食いしばって立ち上がるのではなく、神様の圧倒的な力(内におられる聖霊様)によって「立ち上がる」ことができます。100%の恵みの座にしっかりと腰を下ろしている(完全に愛されている安心感がある)からこそ、私たちは罪悪感や恐れに足をすくわれることなく、力強く立ち上がることができるのです。

3.神様のご栄光のために「歩む」—— 「命令」は神様からの「約束」

■ 自力では到底守れない、新約聖書の高尚な「命令」

立ち上がった私たちは、次に「歩む」ことへと召されています。新約聖書を読むと、「いつも喜んでいなさい」「敵を愛しなさい」「互いに赦し合いなさい」といった、数多くの「命令」が明示されています。
正直なところ、これらは私たちの自力では到底できそうにない、難しく高尚なものばかりです。これを見ると、「結局、恵みで救われた後も、自分の力で頑張って掟を守らなければならないのか」と、途方に暮れて古い契約(律法主義)の重荷を再び背負いそうになってしまいます。

■ 不可能な命令?——いいえ、「命令」は「神様が成長させてくださる」という約束

しかし、神様は私たちが「自力ではできないこと」を知りながら、意地悪で無理難題を命じておられるのでしょうか。絶対に違います。ここに、福音の素晴らしいパラダイムシフトがあります。
新約聖書における神様の「命令」とは、「あなたがた自身の力でやり遂げなさい」という厳しいノルマではなく、「わたしが、あなたをそのように歩める者へと成長させてあげる」という『神様の力強い約束』なのです。
神様が「愛しなさい」と命じる時、それは「わたしがあなたに愛する力を与える」という約束です。「赦しなさい」と命じる時、それは「わたしがあなたを通して赦しの泉を溢れさせる」という絶対的な保証なのです。

■ 私たちの「意志」を神様が尊重し、キリストに似た者へと造り変えてくださる

ただし、恵みにあぐらをかいて座っているだけの私を、神様が無理やり引きずって歩ませることはなさいません。ここでも不可欠なのが、「私の神様に従いたい、神様のために生きたい」という私の『意志』です。
私たちが「主よ、私の力では愛せません。しかし、あなたがそうさせてくださるという約束を信じ、あなたに従う意志をもって一歩を踏み出します」と心を開いて意志を働かせる時、神様はその意志を最大限に尊重してくださいます。そして、私たちの内に働いて、実際に愛を行動に移せるように、少しずつ私たちをキリストに似た者へと造り変え、確実に成長させてくださるのです。
これは決して「救われるための行いの強調」ではありません。「あふれるほどの恵みと愛を知ったからこそ、感謝と喜びが自然とあふれ出し、具体的な行い(歩み)となって現れていく」という、生きた信仰の強調なのです。

結び:意志を働かせて「座り・立ち・歩む」恵みの連鎖に生きる

エペソ人への手紙が教える信仰の歩みは、このように美しくダイナミックに連動しています。
まずは、自力の努力を一切手放し、キリストの十字架による100%の恵みにどっぷりと「座り」ます。そして、その圧倒的な愛に触れて「神様に従いたい」という意志を働かせ、神様の力によって「立ち」上がります。最後に、「神様の命令はすべて約束である」と確信し、神様が必ず私を成長させてくださることに寄りかかりながら、神様のご栄光をあらわすために喜んで「歩む」のです。
今日、私たちは自分の力で歩む必要はありません。しかし、神様への「従いたいという意志」をはっきりと働かせましょう。
「主よ、あなたの恵みに座り、あなたの力で立ち、あなたの約束を信じて歩みます」。
この素晴らしい恵みの連鎖の中を、今日も力強く、そして深い平安とともに歩んでまいりましょう。神様が、必ずあなたを素晴らしい姿へと成長させてくださいます。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事