
イエス・キリストの再臨とその備えについて、より深く、聖書的・神学的にメッセージを作成しました。
御言葉を土台とし、人間の罪の現実と、神の絶対的な主権による栄光の完成(再臨)を対比させながら解説します。
この記事の目次
【永遠の王の帰還を待つ】「天の国籍」を持つ者の確かな希望と、栄光のからだへの変貌
「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ人への手紙 3:20-21)
私たちは皆、人生の中で「何か」を待ち望みながら生きています。「お気に入りのファストフード店が近くにオープンすること」を待ち望んでいる人がいました。これは、私たち人間の日常的な「待ち望む心」をよく表していると思います。 しかし、使徒パウロがピリピ人への手紙3章で語っているのは、おいしいハンバーガーやフライドポテトといった一時的な満足のことではありません。
パウロは私たちの目を地上の欲求から引き上げ、宇宙の歴史の究極のゴールである「イエス・キリストの再臨」という、途方もない栄光の現実へと向けさせています。
真のクリスチャンとは「この世界に属していない者」であり、「王の帰還を確信して、この地上で天国の文化を生きる者」です。
再臨はどのように成就し、私たちはそれをどう備えて待つべきなのか。みことばから見ていきましょう。
1.朽ちる地上の国籍と、永遠の「天の国籍」の対比
パウロは、キリストの再臨を待ち望む私たちの姿を語る前に、まず「間違った待ち望み方」をしている人々について厳しく警告しています。
十字架の敵 —— 自分の「腹(言語では「腹→欲望」)」を神とする者たちの悲劇
パウロは18節と19節で、涙ながらに「キリストの十字架の敵」として歩んでいる者たちがいると語ります。彼らの特徴は何でしょうか。
「彼らの神は彼らの欲望(原語では『腹』)であり…彼らの思いは地上のことだけです」(3:19)。
ファストフードの例えを用いるなら、彼らは「次に出る新しいメニュー」や「この世の財産、快楽、健康、成功」だけを待ち望み、それが満たされることこそが人生の目的だと信じ込んでいる人々です。彼らの神は創造主ではなく、自分自身の「腹(欲望)」です。これは人間の全的堕落の典型的な姿であり、その行き着く先は「滅び」であると聖書は断言しています。
私たちの本国(国籍)は天にある
しかし、十字架の恵みによって救われた私たちは違います。パウロは「私たちの国籍は天にあります」(3:20)と宣言しました。 ここで使われている「国籍(本国)」という言葉は、ギリシャ語で「ポリティウマ(植民地、居留地)」という言葉です。当時、ピリピの町はローマ帝国の植民地でした。ピリピの住民は、遠く離れたマケドニアに住んでいながらも「私たちは誇り高きローマ市民だ。ローマの法律と文化に従って生きるのだ」という強烈な自覚を持っていました。
パウロは言います。「クリスチャンであるあなたたちも同じだ。今はこの暗闇の支配する地上に住んでいるが、あなたの本当の国籍は天国にある。あなたは天の王イエス・キリストに仕える大使であり、天国の文化をこの地上で体現する『天の植民地の住民』なのだ」と。
だからこそ私たちは、地上の快楽やお金(腹)を神とするのではなく、天の本国から真の王(救い主)が迎えに来てくださるのを、首を長くして待ち望むのです。
2.イエス・キリストの再臨は、これからどのように成就していくのか
では、私たちが待ち望んでいる「再臨」とは、具体的にどのように起こるのでしょうか。それは、単なる精神的な悟りや、比喩的な平和の到来ではありません。歴史の舞台に、キリストが物理的に、圧倒的な主権をもって介入される「劇的な大事件」です。
王の帰還と「万物を従わせる御力」
キリストが二千年前に初めてこの地上に来られた時、主は家畜小屋で生まれ、人々から蔑まれ、最後は私たちの罪の刑罰の身代わりとして十字架にかかる「苦難のしもべ」として来られました。 しかし、パウロが言う「そこ(天)から主イエス・キリストが救い主としておいでになる」という再臨の時は全く違います。キリストは、すべての膝をかがめさせる「万物の支配者(王の王)」として、栄光と大能をもって天から降りてこられます。
21節には、キリストが「万物をご自身に従わせることのできる御力によって」来られると記されています。 例えるなら、無法者たちが勝手に暴れ回っているスラム街(この世)に、絶対的な権力と軍隊を持った真の統治者(キリスト)が到着するようなものです。
キリストが来られる時、悪魔の支配も、死の力も、病気も、戦争も、すべてが圧倒的な力によってねじ伏せられ、キリストの足台(完全な支配下)の下に置かれます。
卑しいからだが「栄光のからだ」へと変えられる奇跡
そして、再臨における最大の恵みの御業が、私たちのからだの携挙です。 パウロは、キリストが「私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」と約束しています。
私たちの今のからだは「卑しいからだ(原語では『低さ、屈辱のからだ』)」です。年を取れば白髪になり、脳梗塞やガンなどの病気に倒れ、痛みを感じ、最後には土に返っていく、弱く朽ちるからだです。また、絶えず罪の誘惑に引きずり込まれそうになる「肉の性質」を宿した弱いからだでもあります。 しかし再臨の瞬間、天からラッパの音が響き渡り、キリストの御声が轟くとき、想像を絶する奇跡が起こります。墓に眠っている聖徒たちは不朽のからだに復活し、生きている私たちは一瞬にして(まばたきする間に)、キリストの復活のからだと同じ、罪も病気も死もない「栄光のからだ」へと物理的・霊的に変貌させられるのです。 私たちはこの完全なからだをもって、顔と顔を合わせて主とお会いし、永遠に主と共に住むことになります。これこそが、私たちが待ち望んでいる「究極の希望」です。
3.再臨を待ち望む者は、今日をどう生き(備え)るべきか
では、この偉大な再臨を待ち望んでいる私たちは、今日という日をどのように備え、どう生きていくべきでしょうか。
地上のテント(住まい)に執着せず、天の基準(みことば)で歩む
第一に、この地上への執着(欲)を手放すことです。 もしあなたが、近々ハワイの豪華な大邸宅(本国)に引っ越すことが完全に決まっているとします。それなのに、今住んでいるボロボロの仮設テント(この世)の壁紙を必死に高級なものに張り替えたり、テントの中に大量の財産を溜め込んだりするでしょうか。そんなことはしません。 私たちの人生は、やがて過ぎ去るテント暮らしです。再臨を待ち望むということは、「この世の成功や富がすべてではない」という真理に深く安息することです。地上の価値観(腹「欲望」を神とする生き方)に振り回されず、天の国籍を持つ者として、聖書(神の国の法律)の基準に従って神様の栄光をあらわし神様を喜ばせ、堂々と歩むこと。それが最高の備えです。
確かな希望がもたらす「きよい歩み」
第二に、再臨への希望は、私たちを「きよい歩み」へと力強く押し出します。 パウロは17節で「兄弟たち。私にならう者となってください」と命じています。使徒ヨハネもまた、「主に対するこの望みを抱く者はみな、主がきよくあられるように、自分をきよくします」(1ヨハネ 3:3)と語りました。
再臨を待つことは、ただ座って空を見上げていることではありません。 自分の大好きなファーストフード店のオープンを待つ人が、カレンダーに丸をつけ、友達に「もうすぐあのお店ができるんだよ!」と嬉しそうに語るように、私たちは喜びをもって主の帰還を待つのです。 「もうすぐ、私の愛する王、私を愛して十字架でいのちを捨ててくださった主が帰ってこられる。その時、恥じ入ることなく、喜んで王をお迎えしたい。」 この愛と希望のゆえに、私たちは自力で歯を食いしばるのではなく、神様が備えてくださる聖霊の力によって、今日、目の前の小さな罪を捨て、隣人を愛し、キリストのために生きるという「きよい歩み」を始めていくことができるのです。
結びと祈り
愛する皆さん。私たちの国籍(本国)は天にあります。 今日、あなたが抱えている病気の痛み、将来への不安、人間関係の悲しみは、決して永遠には続きません。万物を従わせる力を持った王が、もうすぐ迎えに来てくださいます。その日、あなたの卑しいからだは完全な栄光のからだに変えられ、すべての涙は拭い去られます。この確かな希望(キリストの十字架と復活の勝利)に心の錨を下ろし、今日という日を、天の市民として喜びと敬虔をもって歩み出そうではありませんか。
【祈り】 主イエス様。私たちの目を、朽ちていく地上のものから引き上げ、永遠の天の国籍へと向けさせてくださり感謝します。あなたが再び来られ、私たちを栄光のからだへと変えてくださるその日まで、私たちが十字架の恵みに深く安息し、あなたを喜ばせるきよい歩みを全うできるよう、聖霊の力で満たしてください。マラナ・タ。主よ、来てください。アーメン。
