
【わたしのつぶやき】
こんにちは。
いつもこのブログ、また聖書通読にまで目を通してくださってありがとうございます。
本当は、この記事はボツになるはずでした。なぜなら毎日配信しているこの「聖書通読のすすめ&簡単な解説」(初めてこんな題名を付けましたが・・)は、1500文字から2000文字くらいで見やすく読みやすいように配信しています。でも、最初には聖書通読の記事を書き出すと止まらなくなって4000文字、5000文字になったりします。そのときは泣く泣く1500文字から2000文字の見やすい長さに短くします。今日は、そのボツになるはずだった長いなが~い今日の記事LONG版を載せてみました。
長いですので、あまり気をはらず気楽にお読みください。途中でしんどくなったら中止してください。それでは開始です……
【今日の聖書通読のすすめ&簡単な解説】
聖書通読第12週4日目の 民数記1章/ルカ19章 は、一見すると
「人数を数える章」と「ザアカイやエルサレム入城の章」で、別々の内容のように見えます。けれども深く見ると、どちらにも共通している大切な流れがあります。
それは、
神様は、一人ひとりをはっきり見ておられ、その人をご自身の目的のために招き、その招きに応答することを求めておられるということです。
今日はこの2章を、できるだけわかりやすく、静かに心にしみ込むように見ていきましょう。題は、『神様は「あなたの名」を知っておられる』です。
この記事の目次
第12週4日目
民数記1章/ルカ19章
神様は「あなたの名」を知っておられる
1. 民数記1章の深い意味
「数えられる」とは大切にされているということ
民数記1章は、イスラエルの民のうち、戦いに出ることのできる20歳以上の男子が数えられる場面です。読むだけだと、「ただ人数を調べているだけかな」
と思いやすい章です。ですが、ここには神様の大切な意味があります。
神様は、ただ「たくさんの人がいるな」と見ておられるのではありません。一人ひとりを部族ごとに、家族ごとに、名前のある存在として数えておられます。
これはたとえるなら、学校の先生がクラス全体を「40人」としか見ていないのではなく、一人ずつ名前を呼んで、「あなたも大切な存在ですよ」と確認しているようなものです。
あるいは牧場の羊飼いが、「羊が何匹かいる」ではなく、「この羊は昨日元気がなかった」「この羊は足を痛めている」と、それぞれを知っている姿に似ています。
神様にとって、ご自分の民は「ただの集団」ではありません。
神様は群衆の中に埋もれたあなたではなく、名を呼ばれるあなたを見ておられます。
神の民は「整えられた共同体」である
民数記1章では、人数を数えるだけでなく、部族ごとの配置や指導者も整えられていきます。
ここからわかることは、神様は混乱を好まれないということです。
神様の民は、ただ集まっているだけの人たちではありません。
神様の目的のために、
秩序を与えられ、
役割を与えられ、
整えられていく民です。
たとえば、オーケストラを思い浮かべてみてください。たくさんの楽器があっても、それぞれが勝手に音を出したら、美しい音楽にはなりません。指揮者のもとで整えられてこそ、力強い調和が生まれます。
神様の民も同じです。一人ひとりが大切であるだけでなく、それぞれが神様のご計画の中で配置されているのです。
「自分なんていてもいなくても同じではないか」と思う時があります。
けれど神様は、そのようには見ておられません。
あなたには、あなたの立つ場所があります。あなたにしか担えない祈りがあります。あなたにしか届けられない優しさがあります。
あなたにしか通れない使命の道があります。
数えられることは責任と守りの中に置かれること
聖書で神様が数える時、それはただ把握するためではありません。
そこには責任と守りが伴います。
神様は「あなたはわたしのものだ」と言って数えられます。
それは、「自分で勝手に生きなさい」ではなく、「わたしの導きの中で歩みなさい」という意味でもあります。
たとえるなら、災害時の避難所で点呼が行われるようなものです。点呼は、管理のためだけではありません。「全員が無事か」「だれが助けを必要としているか」を確認するためです。
神様が私たちを数えておられるのも、それに少し似ています。神様は私たちを放置しません。見失いません。忘れません。
2. ルカ19章の深い意味
ザアカイは「木の上の罪人」ではなく、救いの対象だった
ルカ19章でまず心を打つのは、ザアカイの場面です。ザアカイは取税人のかしらで、金持ちでした。しかし当時、取税人は人々から嫌われていました。
同胞からお金を取り立て、時には不正に私腹を肥やしていたからです。
人々の目には、ザアカイは「ろくでもない罪人」だったでしょう。
けれど主イエスは、木の上にいるザアカイを見上げて、こう言われました。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)
ここが本当にすばらしいところです。
主は、ザアカイが悔い改めてから声をかけたのではありません。まず主のほうから近づかれたのです。
これが恵みです。
恵みとは、
「良い人になったから愛されること」ではありません。
「まだ汚れているのに、それでも主が先に来てくださること」です。
たとえるなら、部屋が散らかっていて「こんな部屋ではとても人を呼べない」
と思っている時に、本当に信頼できる人が「片づいてから行くよ」ではなく、
「そのままでいいから行くよ」と言って来てくれるようなものです。
主イエスは、まさにそういうお方です。
本当の回心は、心だけでなく行動に現れる
ザアカイは主を迎えたあと、自分の財産の半分を貧しい人に施し、だれかからだまし取った物は四倍にして返すと言いました。
ここに、回心の本物さがあります。救いは行いによるのではありません。
けれど、本当に主に出会うと、その人の生き方は変わり始めます。
ザアカイは、「これから心を入れ替えます」と口だけで終わりませんでした。
お金との関係、人との関係、過去の罪に対する向き合い方が変えられました。
たとえるなら、
向きが反対の電車に乗っていた人が、「間違っていた」と気づいたなら、ただ反省するだけではなく、降りて乗り換えるはずです。
悔い改めとは、心の中で「悪かったな」と思うだけでなく、向きを変えることです。
ザアカイは、人生の向きを変えました。そして主は言われました。
「きょう、救いがこの家に来ました。」(ルカ19:9)
救いは理屈だけではありません。家に来るのです。人生に入ってくるのです。生き方を変えるのです。
「失われた者を捜して救うために来た」
ルカ19章の中心の御言葉はこれです。
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)
これは福音の心臓部です。
主イエスは、立派な人を表彰するために来られたのではありません。失われた者を捜すために来られました。
「失われた者」とは、ただ道徳的に悪い人だけではありません。自分が何のために生きているのかわからない人。心が乾いている人。人には言えない後悔を抱えている人。神様から離れてしまっている人。自分では戻れない人。
そのような人を、主は捜しておられます。
つまり、ザアカイの物語は、「あの人だけ特別だった」のではありません。
私たち一人ひとりの物語でもあるのです。
3. ミナのたとえと今日の私たち
恵みを受けた者は、恵みに応えて生きる
ルカ19章には、ミナのたとえがあります。
しもべたちは主人から同じように一ミナを預けられます。その後、主人が帰ってきた時に、それをどう用いたかが問われます。
ここで大事なのは、しもべが「何ももらっていなかった」のではないことです。皆、主人から託されていたのです。
私たちも同じです。
いのち。
時間。
健康。
機会。
賜物。
福音を聞いた恵み。
祈ることのできる特権。
私たちは何も持たされていないのではありません。すでに主から預かっているのです。
たとえるなら、畑を一切与えられていない人に実りは求められません。
しかし、畑も種も水も与えられているなら、「その畑をどうしたのか」と問われるのは自然です。
主は私たちに、完璧さを求めておられるのではありません。けれど、無関心ではいてほしくないのです。
恵みを受けたのなら、その恵みに応答して歩んでほしい。それが主のお心です。
4. エルサレム入城と主の涙
神の訪れの時を見逃す悲しみ
ルカ19章の後半では、主イエスがエルサレムを見て泣かれる場面があります。
これはとても深い場面です。
主はさばきを語られますが、冷たく怒っているのではありません。涙を流しておられます。
なぜでしょうか。それはエルサレムが、神が訪れてくださった時を見分けなかったからです。
救い主が来ておられるのに、それに気づかない。神の平和への道が目の前にあるのに、それを受け取らない。それはなんと悲しいことでしょうか。
たとえるなら、長い間待ち続けていた大切な人が、ついに玄関まで来てくれたのに、家の中で別のことに気を取られ、気づかずに帰してしまうようなものです。
主は今も、私たちの人生を訪れてくださいます。
御言葉を通して。
祈りの中で。
礼拝の中で。
ある出会いの中で。
ある痛みの中で。
ある気づきの中で。
けれど私たちは忙しさや思い込みの中で、その訪れを見逃してしまうことがあります。
だから今日は、静かに立ち止まりたいのです。
「主よ、あなたが今わたしに語っておられることを、見逃さないようにしてください」と。
5. 今日の黙想
民数記1章とルカ19章を一つにつなぐと
この二つの章をつなぐと、こういうメッセージが見えてきます。
民数記1章では、神様は一人ひとりを名をもって数えられます。
ルカ19章では、主イエスは木の上のザアカイを名を呼んで招かれます。
民数記1章では、神の民が使命ある共同体として整えられます。
ルカ19章では、恵みを受けた者が応答して生きることが求められます。
民数記1章では、神様の民は守りと責任の中に置かれます。
ルカ19章では、その責任にどう応えるかが問われます。
つまり今日の中心はこうです。
神様はあなたを知っておられます。そして、あなたを招いておられます。その招きに、具体的に応答してほしいと願っておられます。
6. わたしたちへの適用
今日、どのように応答するか
今日の御言葉から、静かに自分に問いかけてみましょう。
① わたしは「神様に名を覚えられた者」として生きているだろうか
自分を、その他大勢の一人のように感じることがあります。
けれど神様は、あなたをはっきり知っておられます。
まずそのことを受け取りたいです。
② わたしの中に、ザアカイのように主に見られたくない部分はないだろうか
隠しておきたいところ。
見られたくない過去。
触れられたくない問題。
けれど主は、責めるためでなく救うために来られます。
③ 悔い改めが具体的な行動に表れているだろうか
「気持ちだけ」で終わっていないか。
主に従うために、何を変えるべきか。
誰に謝るべきか。
何を手放すべきか。
何を始めるべきか。
④ 神の訪れの時を見逃していないだろうか
主は今、何を語っておられるでしょうか。
後回しにしていることはないでしょうか。
7. 静思のための短い祈り
主よ。あなたがわたしを、名のない群衆ではなく、名を覚えられた一人として見ていてくださることを感謝します。
わたしの中に、ザアカイのように隠れている部分があるなら、そこにも来てください。
あなたの恵みによって心を変え、悔い改めを具体的な歩みに変えてください。
あなたが訪れてくださる時を見逃さないように、鈍くなった心を目覚めさせてください。
今日も、あなたの民の一人として、あなたの導きと守りの中を歩ませてください。
イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
8. 今日の一言黙想
「主はわたしの名を知っておられ、今日もわたしを招いておられる。」
この一言を胸に、静かに感謝してみてください。

