【ルカ20章】見せかけの敬虔と神に喜ばれる敬虔・・・「信仰の外側」と「心の中」を照らす章

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見せかけの敬虔と神に喜ばれる敬虔――ルカ20章をやさしく読む

ルカ20章は「信仰の外側」と「心の中」を照らす章

ルカ20章を読むと、祭司長、律法学者、長老たちが次々にイエス様へ質問をしている場面が出てきます。
「あなたは何の権威でこういうことをするのか。」
「皇帝に税を納めるべきか。」
「復活は本当にあるのか。」
一見すると、とてもまじめに聖書のことを考えている人たちのように見えます。
けれどもイエス様は、その人たちの言葉だけではなく、心の向きをご覧になっていました。
ここがとても大切です。
同じ質問でも、
本当に知りたいから聞くのか。
それとも相手を困らせるために聞くのか。
その違いを、主はちゃんと見抜いておられたのです。

同じ言葉でも心の向きで意味が変わる

たとえば、病院で患者さんが医師に質問するとします。
一人は、
「先生、どうしたら良くなりますか」
と、本当に治りたくて聞いています。
もう一人は、
「その治療、本当に正しいんですか」
と、治るつもりはなく、ただ先生の揚げ足を取りたくて言っています。
言葉は似ていても、中身はまるで違います。
ルカ20章の宗教指導者たちの多くは、残念ながら後のほうでした。
イエス様から真理を受け取りたいのではなく、
イエス様を言い負かしたい。
困らせたい。
自分たちの立場を守りたい。
そんな思いが心の奥にありました。

見せかけの敬虔とは何か

見せかけの敬虔とは
神様を求めているように見えて、実は神様より自分を守っている姿
です。
外から見ると立派です。
聖書の知識もあります。
宗教的な言葉も使えます。
人前でも堂々としています。
でも心の中心で、
「神様、あなたに従います」
ではなく、
「自分の正しさを守りたい」
「自分の立場を失いたくない」
となっているのです。

外側は立派でも中身が違うことがある

これは、きれいに包装された箱のようなものです。
箱はとても立派です。
包装紙も美しく、リボンもついています。
見る人は、
「すばらしい贈り物だ」
と思うかもしれません。
でも、開けてみたら中身が空っぽだったらどうでしょうか。
外側は立派でも、中身がなければ本当の贈り物とは言えません。
信仰もそれに似ています。
祈っているように見える。
礼拝に出ている。
聖書を知っている。
信仰の話もできる。
でも心が神様から遠いなら
それは神様が喜ばれる敬虔ではありません。

神様は外見よりも心を見ておられる

人は外側を見やすいものです
「あの人は熱心そうだ」
「あの人は立派そうだ」
と判断しやすいです。
けれども神様は、もっと深いところをご覧になります
その人が本当に神様を愛しているのか。
本当にへりくだっているのか。
本当に従おうとしているのか。
そこを見ておられるのです。
ですから、不敬虔とは、ただ乱暴な言葉を使うことや、露骨に神様に逆らうことだけではありません。
宗教的に見えても、心が神様から離れていれば、それもまた不敬虔なのです。

神に喜ばれる敬虔とは何か

では、神様が喜ばれる敬虔とは何でしょうか
それは、難しい顔をすることではありません。
宗教的な言葉をたくさん使うことでもありません。
神に喜ばれる敬虔とは、
神様を神様として敬い、へりくだって御言葉を聞き、従おうとする心
です。
「主よ、私は全部わかっていません。」
「でも教えてください。」
「あなたの言われることに従いたいです。」
そういう心です。

へりくだる心が敬虔の出発点

敬虔な人とは、何でも知っている人ではありません。
神様の前で、
「私はあなたを必要としています」
と言える人です。
たとえば、乾いた土は雨を拒みません。
静かに雨を受け取ります。
そして、受け取った水によって少しずつ柔らかくなり、実を結ぶようになります。
私たちの心も同じです。
「私は正しい」
「私は変わらない」
と固くなっていると、神様の言葉はしみ込みにくくなります。
でも、
「主よ、わたしに語ってください」
と心を開くなら、御言葉はしみ込み、少しずつ私たちを変えていきます。

本当の敬虔は神様を第一にする

本当の敬虔は人にどう見られるかではなく、
神様がどう見ておられるかを大切にします。
人前で立派に見えなくても、
神様の前で真実でありたい。
うまく見せることよりも、
本当に従うことを大切にしたい。
そのような心が、神様に喜ばれる敬虔です。

「神のものは神に返しなさい」の深い意味

ルカ20章の中で特に有名なのが、この御言葉です。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
これは税金の話としてよく知られています。
もちろんその意味もあります。
社会の中で果たすべき責任を果たしなさい、ということです
けれども、イエス様の言葉はそれだけで終わりません。
もっと深いところに届いています。

神様のものとは何か

神様のものとは、何でしょうか
お金だけではありません。
献金だけでもありません。
あなたの時間。
あなたの心。
あなたの力。
あなたの人生。
それらはみな、もともと神様から与えられたものです
たとえるなら、借りた本をずっと持ったまま、
「これは自分のものだ」
と思い込んでしまうようなものです。
でも実際には、自分で作ったわけでも、自分で生み出したわけでもありません。
私たちの命も同じです。
今日という一日も、自分で作ったものではありません。
神様から与えられているのです。
だから主は、
「神のものは神に返しなさい」
と語られます。
それはつまり、
自分自身を神様にお返ししなさい
という招きでもあります。

神様に返すとは、神様中心に生きること

神様に返すとは、
何か特別なことをすることだけではありません。
朝の時間を神様に向けること。
悩みを一人で抱え込まず祈ること。
自分の考えより御言葉を優先しようとすること。
人に見せるためではなく、神様の前で誠実に生きようとすること。
そういう一つ一つが、
「神のものを神に返す」歩みです。

復活についての問答が教えていること

ルカ20章では、復活を信じない人たちがイエス様に難しい質問を投げかけます。
けれどもそれもまた、真理を知るためというより、イエス様を困らせるための問いでした。
しかしイエス様は、その問いに対しても真理を語られました。
神様は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である
と。

神様との関係はこの世だけで終わらない

これは大きな慰めです。
私たちの信仰は、
この地上で少し心が楽になるためだけのものではありません。
神様との関係は、この世だけで終わるものではないのです。
神様は生きておられます。
そして、その神様につながる者のいのちも、そこで終わりではありません。
たとえるなら、信仰は旅先で使う一時的な傘ではなく、
家に帰るまでずっと導いてくれる光のようなものです。
この世の途中だけを照らすのではなく、
永遠へ向かう道まで照らしてくださるのです。

だから信仰は形だけで終わってはいけない

もし神様との関係が永遠に関わるものなら、
信仰はただの外側の形で終わってはいけません。
礼拝しているように見えるだけ。
聖書を知っているだけ。
祈りの言葉を並べるだけ。
それでは足りないのです
神様は、私たちの内側にある
「本当に主を求める心」
を見ておられます。

私たちの中にもある「見せかけの敬虔」

ルカ20章を読むと、
つい宗教指導者たちを見て
「この人たちはよくない」
と思ってしまいます。
けれども、この章は実は
私たち自身の心を照らす鏡
でもあります。

礼拝や祈りが習慣だけになることがある

私たちも、礼拝に出ることがあります。
祈ることがあります。
聖書を読むことがあります。
それ自体はとても大切です。
けれども、続けているうちに、いつのまにか
「神様に向かうため」より
「いつもの習慣だから」
になってしまうことがあります。
たとえるなら、毎日家族に「おはよう」と言っていても、
心ここにあらずで口だけ動いているようなものです。
言葉はあっても、心がこもっていないのです。
信仰生活にも、それが起こることがあります。

神様より自分の正しさを守りたくなる

また私たちは、
神様に従うことよりも
自分の考えや自分の立場を守りたくなることがあります。
「自分は間違っていない」
「自分のやり方のほうが正しい」
「ここは変えたくない」
そんな思いが強くなると、
神様の言葉を素直に受け取りにくくなります。
宗教指導者たちだけがそうだったのではありません。
私たちの心の中にも、その芽はあるのです。

見せかけの敬虔は静かに入り込む

見せかけの敬虔は
突然大きな音を立ててやって来るわけではありません。
少しずつ入り込みます。
祈っているけれど、神様に心を向けていない。
聖書を読んでいるけれど、従う気持ちが薄れている。
礼拝しているけれど、人の目ばかり気にしている。
そうやって、外側は残りながら、内側が少しずつ冷えていくのです
だからこそ、ときどき立ち止まって
「私の心は本当に主に向いているだろうか」
と確かめる必要があります。

神様が喜ばれるのは真実な心

神様が喜ばれるのは、
完璧な人ではありません。
失敗しない人でもありません。
立派に見える人でもありません。
神様が喜ばれるのは
真実な心です。

不完全でも主を求める心を主は喜ばれる

私たちは弱いです。
迷うこともあります。
祈っていても集中できない日があります。
御言葉を読んでも、すぐに従えないことがあります。
けれども主は、
そのような私たちをすぐに退けるお方ではありません。
むしろ、
「主よ、私は弱いです。
でもあなたを求めます」
と向く心を喜んでくださいます。
たとえるなら、よちよち歩きの子どもが親に向かって歩いてくるようなものです。
まっすぐきれいには歩けません。
途中でふらつくかもしれません。
でも親は、その小さな一歩を喜びます。
神様もそれに似ています。
完全さより、主に向こうとする真実な心を見てくださるのです

神様の前で本当であることが大切

人の前で立派に見えなくてもよいのです。
神様の前で本当であることが大切です。
「主よ、いま私の心は乱れています。」
「主よ、従いたいのに弱さがあります。」
「主よ、形だけになっている私を憐れんでください。」
そう正直に祈ることのできる人は幸いです。
その心は、神様に向いているからです。

まとめ――見せかけではなく真実な敬虔へ

ルカ20章は
見せかけの敬虔と、
神に喜ばれる敬虔の違いをはっきり教えてくれます。
見せかけの敬虔は
神様を求めているようで、自分を守ろうとします。
外側は立派でも、心が神様から離れています。
神に喜ばれる敬虔は
へりくだって主の言葉を聞き、
神様を第一にし、
自分自身を主にお返しする歩みです。
今日、私たちも静かに自分の心を見つめたいと思います。

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