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【主の晩餐(聖餐式)とは】石の心から肉の心へ――十字架の血がもたらした「新しい契約」の福音
主の晩餐(聖餐式)で私たちが受け取る「杯」には、どのような意味が込められているのでしょうか。旧約時代の「古い契約」の限界と、エゼキエルが預言した心の回復の約束を対比させながら、イエス・キリストの十字架の血によって結ばれた「新しい契約」という恵みの福音を、分かりやすい例えとエピソードを通してお伝えします。
絶望の「古い契約」と、エゼキエル書の叫び
守りきれない契約と「石の心」
旧約聖書の時代、神様はシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と「古い契約」を結ばれました。それは「この律法(ルール)をすべて守り行うなら祝福され、破るならのろわれる」という、人間の行いを条件とした契約でした。しかし、人間の本質的な罪と弱さゆえに、イスラエルの民は誰一人としてその契約を完全に守り抜くことはできませんでした。
古い契約は、例えるなら「絶対に合格できない超難関のテスト」であり、私たちの罪の汚れを映し出す「鏡」のようなものです。鏡は「顔が汚れている」と教えてはくれますが、その汚れを洗い流す力はありません。
預言者エゼキエルは、この律法に応答できない人間の冷たくかたくなな状態を「石の心」と呼びました。そして、人間自身の努力による古い契約が完全に破綻した絶望の中で、神様ご自身が全く新しい解決策を用意していることを力強く預言したのです。
「わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、肉の心を与える。」
(エゼキエル書 36:26)
キリストの血による「新しい契約」の福音
主の晩餐が示す、恵みによる大逆転
エゼキエルが預言した「石の心を取り除き、新しく生きた肉の心(神の愛に応答できる柔らかい心)を与える」という約束。これを決定的に成就させたのが、イエス・キリストの十字架です。
イエス様は、十字架にかかる前夜の「最後の晩餐」の席で、弟子たちにぶどう酒の杯を渡し、こう宣言されました。
「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約です。」
(ルカの福音書 22:20)
「新しい契約」とは、私たちの努力や行いを条件とするものではありません。神の御子であるイエス・キリストが、私たちの代わりに古い契約のすべての要求を完全に満たし、私たちが受けるべき罪の罰を「ご自身の命(血)」をもって全額支払い終えてくださった、という「恵みによる一方的な宣言」です。
そして、このイエスキリストの十字架の死が、わたしの罪の刑罰の身代わりであり、復活して下さったイエスキリストこそわたしの救い主であると信仰によって受け入れたことをもってこの「新しい契約」が完全に有効となったのです。
古い契約が「あなたがこれをすべて行えば、私はあなたの罪すべてを赦す」という条件付きの契約であったのに対し、新しい契約は「キリストがあなたのすべての罪の借金を完全に完了したゆえに、私はあなた罪すべてを赦し、わたしの子とする」という、無条件の恵みの福音なのです。
例えとエピソード:命の血による身代わり
全額返済された「罪の借金証書」
古い契約と新しい契約の違いを、借金に例えてみましょう。
あなたは、自分では一生かかっても絶対に返せない天文学的な額の「借金証書(罪のリスト)」を抱えています。古い契約の法律の下では、あなたは裁判にかけられ、永遠の牢獄に入れられるしかありません。どんなに「これから良いことをして少しずつ返します」と約束しても、過去の借金が消えるわけではないからです。
しかし裁判の日、裁判長である神様は自らその席を立ち、着ていた法服を脱いであなたの隣に立ちました。そして、神の御子であるイエス様が、あなたのその莫大な借金証書を手に取り、ご自身の「血」という赤いインクで、証書の上に大きく「完済(PAID IN FULL)」と尊きいのちを捨てることによって書き込んでくださったのです。
これが、キリストの血による新しい契約です。あなたは自分の努力で借金を返したのではなく、キリストの犠牲という「恵み」によってすべての罪が赦され無罪となり、神の子どもとして迎え入れられたのです。
妹のために血を捧げた少年の物語
「血を流すことによる身代わりと救い」について、ある感動的な実話があります。
ある病院で、重い病気に苦しむ小さな女の子がいました。彼女が助かる唯一の道は、病気を克服する特別な抗体を持った、5歳になる兄からの「輸血」だけでした。
医師は少年の目線に合わせてしゃがみ込み、「妹を助けるために、君の血を分けてくれないか?」と優しく尋ねました。少年は一瞬怯えたように口ごもり、しばらく下を向いて考えていましたが、やがて顔を上げ、深呼吸をして「うん、妹が助かるならやるよ」と答えました。
輸血が始まりました。少年はベッドに横たわり、自分の腕から管を通って妹の体へと血が流れていくのを、静かに、そして少し青ざめた顔で見つめていました。妹の頬に少しずつ赤みが戻ってくるのを見たとき、少年は医師の袖を引っ張り、震える小さな声でこう尋ねました。
「先生……僕は、あと何分くらいで死ぬの?」
医師はハッとしました。この幼い少年は、「血を分ける」ということは「自分の命をすべて引き渡して死ぬこと」だと勘違いしていたのです。彼は自分が死ぬ覚悟で、愛する妹のために「すべて」を差し出していたのでした。
結び:主の晩餐の杯を、感謝とともに受け取る
あの少年の行動は勘違いから生まれた尊い愛でしたが、イエス・キリストの十字架は、決して勘違いではありませんでした。イエス様は、本当にご自身の命のすべてを注ぎ出し、最後の一滴まで血を流し尽くして、あなたを死の病(罪)から救い出すためにあなたの罪の身代わりに十字架で尊いいのちをすててくださったのです。
私たちが主の晩餐(聖餐式)で小さな杯を受け取るとき、それは単なる教会の儀式ではありません。
「私には、この石の心をどうすることもできませんでした。しかし、あなたの流された尊い命の血によって、わたしは自分の罪を悔い改め、信仰でイエスキリストを私の救い主と信じ受け入れました。そして、私の罪の借金はすべて完済され、私は新しい命と肉の心をいただきました」と、十字架の圧倒的な愛と身代わりの恵みを、心の中で深く味わい、受け取るための喜びの祝宴なのです。
どうか、聖餐の杯を手にするたびに、あなたのために流されたその「新しい契約の血」の温もりを思い起こしてください。そこにこそ、私たちの生きる唯一の希望と、決して揺るがない福音が込められているのです。
