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【聖書通読 第28週 2日目】「私と私の家は主に仕える」という決断と、貧しさの中で輝く「あふれる喜びの捧げ物」
ヨシュア記からは、全イスラエルに向けたヨシュアの揺るぎない信仰の決断を。第二コリントからは、苦難と貧しさの中でこそ豊かにあふれ出る「喜びの捧げ物」の秘密を学びます。愛から生まれる決断と、キリストの恵みに押し出された自発的な献身に触れる一日です。
【旧約】ヨシュア記 24章 の解説
ヨシュア記の最終章である24章で、ヨシュアはイスラエルの全会衆をシケムという重要な場所に集めます。そこで彼は、アブラハムを偶像礼拝の地から呼び出した時から、エジプトでの苦難、荒野の旅、そして約束の地への定住に至るまで、神様がどれほど真実な愛で彼らを導いてこられたか、その壮大な救いの歴史を丁寧に語り聞かせます。そして、全生涯をかけた重みのある言葉で、民に究極の決断を迫ります。
「あなたがたが仕えるべき方を、今日選べ。……しかし、私と私の家は主に仕える。」
このヨシュアの言葉は、単なるスローガンや強制ではありません。周囲の国々が信じる魅力的な偶像(目に見える豊かさや安心感)や、古いエジプトの習慣に未練を残す民に対して、「二足のわらじを履くのはやめて、誰を人生の中心とするのかを今ここではっきりさせなさい」という愛の警告だったのです。
人間関係でも同じですが、「この人を愛し抜く」という思いは、結婚式の日の誓いだけで終わるものではありません。長い年月の中で、何度も心の中で選び直す作業が必要です。信仰もまた「過去に一度信じたから終わり」ではありません。毎日の生活の中で、私たちは世間の常識や自分の欲望という無数の「偶像」に囲まれています。だからこそ、「今日も私は神様を選び、神様に仕える」という日々の決断(選び直し)が必要なのです。ヨシュアが「私と私の家は」と語ったように、真の信仰の歩みは、まず誰でもない「自分自身」の決断から始まり、それがやがて家族や周囲の人々へと温かく波及していきます。110歳で生涯を閉じた彼の揺るぎない決断の響きは、今も私たちの心に力強く迫ってきます。
【新約】第二コリント 8章 の解説
第二コリント8章でパウロは、「献金(捧げること)」という私たちの日常に直結するテーマについて語ります。彼がここで素晴らしい模範として紹介したのは、マケドニアの教会の信者たちでした。彼ら自身、激しい苦難と「極度の貧しさ」の中にあり、普通なら自分たちの生活を守るだけで精一杯のはずでした。しかし驚くべきことに、彼らの心には「あふれる喜び」があり、自分たちの力以上に、エルサレムの貧しい聖徒たちへの救援の働きに加わらせてほしいと、パウロに「熱心に願い出た」のです。
極度の貧しさの中で、なぜ彼らはこれほどまでに喜んで捧げることができたのでしょうか? パウロはその秘密をこう明かします。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
マケドニアの人々を動かしていたのは、「献金しなければならない」という義務感や強迫観念(外的欲求)ではありませんでした。神の御子が、ご自身の命という天の最高の宝を捨てて自分たちを救ってくださった、その「圧倒的な十字架の恵み」に心が完全に打ち砕かれていたからです。
ある貧しい少年が、大好きな母親の誕生日に、自分の全財産である数枚の硬貨を握りしめて一本のバラの花を買いました。彼のお財布は空っぽになりましたが、その顔は世界一の金持ちのように輝いていました。「愛する人のために捧げる喜び」が、彼を満たしていたからです。神様が私たちに求めておられるのは、額の大きさや無理をした自己犠牲ではありません。「イエス様の愛が嬉しいから、私も何かを捧げたい」という、内側からあふれ出る自発的な愛(内的欲求)なのです。
今日の神様からの奨め
今日、あなたの目の前に「世間の価値観(損得勘定)」と「神様のみこころ」の二つの道が現れたら、どうかヨシュアのように「私は主に仕える」と勇敢に選んでみてください。その小さな決断の積み重ねが、あなたの人生に揺るぎない太い軸を与えてくれます。
また、今日あなたが誰かのために時間や労力、あるいは祈りを捧げるとき、それを「やらなければならない義務」としてではなく、「私を愛してすべてを投げ出してくださったイエス様への、感謝」として差し出してみてください。あなたのそのささやかな捧げ物が、神様の目には最も美しい宝物として受け取られる、喜びあふれる一日となりますように。
