【聖書通読 第28週 3日目】小さな妥協がもたらす「不完全な従順」と、純粋な真心から蒔く「喜んで与える恵み」

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【聖書通読 第28週 3日目】小さな妥協がもたらす「不完全な従順」と、純粋な真心から蒔く「喜んで与える恵み」

士師記からは、神様の命令を最後までやり遂げず、目先の利益と妥協してしまったイスラエルの姿を通して「完全な従順」の大切さを学びます。第二コリントからは、義務や強制ではなく、心からの自発的な愛をもって「喜んで与える」者にあふれる、神様の豊かな祝福を味わう一日です。

【旧約】士師記 1章 の解説

ヨシュアが世を去り、いよいよ士師記の時代が幕を開けます。最初はユダ族が先頭に立ってカナン人と戦い、素晴らしい勝利を収めていきました。しかし、章を読み進めていくと、次第に不穏な空気が漂い始めます。
「マナセは……追い払わなかった」「エフライムは……追い出さなかった」。イスラエルの各部族は、神様から「敵を完全に追い払いなさい」と命じられていたにもかかわらず、敵の抵抗が激しかったり、あるいは敵を「強制労働(奴隷)」として利用したほうが経済的に得だと打算を働かせたりして、途中で戦うことをやめてしまったのです。
これは、深刻な病気の治療に似ています。お医者さんから「完全に菌が死滅するまで、最後まで抗生物質を飲み切ってください」と言われていたのに、「もう熱も下がったし、薬を飲むのも面倒だ」と途中でやめてしまうとどうなるでしょうか。残ったわずかな菌が抗体を持ち、やがてさらに恐ろしい病気となって体を蝕み始めます。
イスラエルが行ったこの「不完全な従順」「少しの妥協」は、彼らの信仰生活の根幹を揺るがす恐ろしい「霊的な耐性菌」となってしまいました。目先の利益や「このくらいなら大丈夫だろう」という自己判断が、やがて士師記全体を覆う偶像礼拝と苦難のサイクルの火種となったのです。神様の御言葉に従うとき、私たちは自分の都合で「ここまででいいや」と線を引くのではなく、目に見える不利益が生じても最後まで徹底的に神様を信頼し抜く姿勢が求められています。

【新約】第二コリント 9章 の解説

第二コリント9章では、引き続き献金(捧げること)についての素晴らしい原則が語られます。
「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」
ここでパウロは、ただ物理的な額の大小を言っているわけではありません。最も大切なのは、その心にある「動機」です。
「各自、心に決めたとおりにしなさい。いやいやながらしたり、強いられてしたりしてはいけません。神は喜んで与える人を愛してくださるからです。」
現代の社会では、効率を求めて自動的に物事を処理したり、義務感から形式的な付き合いをこなしたりすることが増えました。しかし、心を通わせる本当の人間関係や、悩んでいる人の人生を支え、寄り添うような深いサポートは、決してそのような機械的な作業や義務感からは生まれません。人の心を本当に打ち動かすのは、打算のない「純粋な真実さ」です。
教会での奉仕や献金、あるいは誰かの相談に乗るという日常の働きにおいても同じです。「しなければならない」という重圧(外的欲求)から行うのではなく、「神様からいただいた愛と喜びを、この人にも分けてあげたい」という内側から湧き上がる思い(内的欲求)から、笑顔で手渡していく。そのような「喜んで与える人」の手元を、神様は決して空っぽにはなさいません。神様ご自身が豊かな恵みで満たし、あらゆる良いわざを行えるように、あふれるばかりに祝福してくださるのです。

今日の神様からの奨め

今日、あなたの生活の中で「神様はこう言っているけれど、面倒だからこのくらいで妥協しよう」と、中途半端にしていることはないでしょうか。小さな妥協の芽を見つけたら、もう一度、神様に真っ直ぐに従う決心をしてみましょう。交渉術でよく「そうしたら間をとってこうしましょう・・・」という方法があります。しかし、あいだ、あいだを取っていると、どんどん相手方に近づいていくのです。また「一回くらい・・・」「今回だけ・・・」は常習として当たり前になってきます。

また、今日あなたが誰かのために費やす時間やエネルギー、言葉のプレゼントは、「いやいやながら」ではなく、「喜んで」捧げてみてください。あなたのその真心からの笑顔と自発的な愛の行動を、天のお父さんは誰よりも喜び、数え切れないほどの豊かな恵みの種として、あなたの人生に蒔き返してくださいます。

以下に【士師記の概要の解説】があります。全体を把握する手助けとして・・・

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