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【聖書通読 第25週 5日目】祈りを欠いた痛恨のミスと、最高の栄冠のための「権利放棄」
ギブオン人の偽装を見抜けず、祈らずに決断してしまったヨシュアの失敗から、日々の「小さな祈り」の重要性を学びます。またパウロの姿を通して、自分の正当な権利を主張するよりも、他者の救いという最高のゴールのために自己を節制し、愛の道を走るキリスト者の情熱に触れる一日です。
【旧約】ヨシュア記 9章 の解説
エリコとアイでの大勝利の噂を聞き、カナンに住むギブオンの人々はパニックに陥ります。そこで彼らは一計を案じました。ボロボロの服を着て、カビの生えたパンと破れた革袋を用意し、イスラエルの陣営にやって来たのです。「私たちは遠くの国から来た者です。どうか平和条約を結んでください」と彼らは巧みに偽りました。
ヨシュアと指導者たちは、彼らの見た目のボロボロさと同情を誘う言葉にすっかり騙されてしまいます。彼らがここで犯した致命的なミスは、「主の御告げを求めずに(祈らずに)」、自分たちの目と経験だけで判断して、神様が禁じていたはずの同盟を結んでしまったことでした。
これは、私たちが日常で犯しやすい失敗そのものです。たとえば、条件の良さそうな契約書や、絶対においしい儲け話を持ちかけられたとします。自分の経験や「見た目の良さ」だけで判断し、社長(神様)に相談することなく独断でサインをしてしまい、後で会社全体を揺るがす大損害を招くようなものです。あるいは、山で美味しそうなキノコを見つけ、「これくらいなら安全だろう」と専門家に確認せずに、詳しく調べもせずに食べてしまい、実は毒キノコだったという痛ましい事故にも似ています。
私たちは、人生の大きな決断(結婚や就職、病気の時など)の前には必死に神様に祈ります。しかし、一見すると「わざわざ祈るまでもない」と思える日常の些細な事柄や、自分の経験値で処理できそうな出来事の前に立ったとき、つい「祈りのステップ」を省略してしまいがちです。しかし、悪魔の誘惑は角を生やした恐ろしい姿ではなく、ボロボロの服や、同情を誘う姿、あるいは美味しそうなキノコの姿をして近づいてきます。
自分の目(常識)に頼らず、どんな小さなことでもまず「神様、これはどうでしょうか」と伺いを立てる「祈りの習慣」こそが、私たちを最大の危機から守る最強の防波堤なのです。
【新約】第一コリント 9章 の解説
第一コリント9章でパウロは、自分が持っている「当然の権利」について語ります。彼は使徒として、教会から経済的な支援を受ける権利も、他の使徒たちのように信者の妻を連れて伝道旅行をする権利も持っていました。しかし彼は、その正当な権利をあえて「一つも使わなかった」と宣言します。
なぜでしょうか。それは「キリストの福音の妨げにならないため」でした。人々が「パウロはお金のために伝道しているのだ」と誤解して神様から遠ざかってしまうくらいなら、私は自分でテント作りの肉体労働をしてでも、無報酬で福音を伝えるというのです。「私はすべての人に対してすべての人になりました。何とかして、幾人かでも救うためです」という言葉に、彼の魂への燃えるような愛が溢れています。
これを、オリンピックを目指す「アスリート」に例えてみましょう。彼らには、休日にソファでポテトチップスを食べながらテレビを見る「権利」も、夜更かしをして遊ぶ「自由」もあります。それは決して悪いことではありません。しかし、彼らは「金メダル」という最高の栄冠(ゴール)を手に入れるために、あえてその権利を自ら放棄し、厳しいトレーニングと食事制限という「節制」を喜びとして引き受けます。
私たちクリスチャンも同じです。「これをしても罪ではない、私には権利がある」と自分の自由を主張することは簡単です。しかし、私たちの人生の目的は「自分の権利を満たすこと」ではなく、「神様の愛を伝え、朽ちない永遠の冠を得ること」です。パウロのように、魂を愛するがゆえに自分の権利を笑顔で手放すとき、その手には、この世のどんな権利にも勝る「神様からの最高の報い」が握られるのです。
今日の神様からの奨め
今日は、何かを決断する前に、それがどんなに些細なことに思えても「神様、どうしたらよいでしょうか」と心の中で一言祈る(伺いを立てる)習慣を意識してみましょう。神様は、あなたのその小さな寄り頼みをとても喜んでくださいます。
また、あなたが今日、誰かのために自分の「小さな権利」や「こだわり」を一つ譲ってみるなら、そこには必ず神様の平和が満ち溢れます。朽ちる冠ではなく、神様が用意してくださる「永遠の冠」を見つめながら、愛という最高のゴールに向かってアスリートのように爽やかに走り抜ける一日となりますように。
