手放す勇気と、ただ一つの瞳を見つめる「一意専心の覚悟」

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手放す勇気と、ただ一つの瞳を見つめる「一意専心の覚悟」

「二足のわらじを履く」という言葉があります。もともとは、一人の人間が二つの異なる職業や役割を同時にこなすことを指しますが、信仰の世界において、これほど私たちの魂を疲弊させ、喜びを奪うものはありません。
聖書は明確に「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」(マタイの福音書 6:24)と語っています。神様を信じながらも、同時に「世間の評価」や「物質的な安心」というもう一つのわらじを履き続けようとすること。それは、右足と左足が別々の方向に向かって歩こうとするようなものであり、やがて心が引き裂かれ、身動きが取れなくなってしまいます。
イエス・キリストだけに「一意専心(心を一つのことだけに集中させること)」し、すべてを委ねる「覚悟」とはどのようなものか。分かりやすい例えと、あるエピソードを通して説明していきましょう。

空中ブランコの法則 ―― 「二つのバー」は同時に握れない

サーカスの花形である「空中ブランコ」を想像してみてください。
空中ブランコには、空を飛ぶ「フライヤー(飛び手)」と、向こう側で逆さになって待ち受ける「キャッチャー(受け手)」がいます。
フライヤーが向こう側のキャッチャーに飛び移るためには、絶対に守らなければならない鉄則があります。それは、「自分が今まで握っていたバー(手すり)から、完全に手を離さなければならない」ということです。
もしフライヤーが、「落ちるのが怖いから」と片手で元のバーを握りしめたまま、もう片方の手でキャッチャーを掴もうとすればどうなるでしょうか。腕は引き裂かれそうになり、勢いを失って、真っ逆さまに落下してしまいます。
信仰における「二足のわらじ」とは、まさにこの状態です。
「イエス様に救われたい、従いたい」と手を伸ばしながらも、もう片方の手で「世間の評価」「自分のプライド」「お金への執着」というバーを固く握りしめている状態です。
前回お話しした福音的な「覚悟」とは、自分の力で空を飛ぼうと努力することではありません。向こう側で力強い両手を広げて待っていてくださるキャッチャー(イエス・キリスト)を100%信頼し、自分がしがみついていたこの世のバーから、思い切って「両手を離す」ことなのです。
「一意専心の覚悟」とは恐れを捨てて古いバーから手を離しただキリストの力強い恵みの腕の中へと自分の全存在を投げ出す決断】に他なりません

たった一人の観客 ―― 誰の目を見つめて生きるか

では、この「一意専心」の生き方は、私たちにどのような心の変化をもたらすのでしょうか。あるエピソードをご紹介します。
あるヨーロッパの劇場で、才能あふれる若きピアニストのデビューコンサートが開かれました。彼が演奏したのは、極めて難易度の高いクラシックの大曲です。
彼の指が最後の鍵盤を力強く叩き終えると、ホールは水を打ったような静寂に包まれ、次の瞬間、割れんばかりの拍手喝采が巻き起こりました。観客は総立ち(スタンディング・オベーション)となり、彼の素晴らしい演奏を絶賛しました。
しかし、ステージの中央に立つ若きピアニストの顔に、笑顔はありませんでした。彼は、熱狂する一階席の観客たちには目もくれず、不安げな表情で、二階席のバルコニーの奥をじっと見つめていたのです。
やがて、そのバルコニー席の暗がりから、一人の白髪の老人がゆっくりと立ち上がりました。そして、ステージ上の若者に向かって、深く、力強く「うなずいた」のです。
その老人は、彼にピアノのすべてを教え込んだ、偉大なマスター(恩師)でした。
老人のうなずきを見た瞬間、若きピアニストの顔は初めてパッと輝き、満面の笑みを浮かべて、観客に向かって深くお辞儀をしました。
彼にとって、数千人の観客の拍手や喝采はどうでもよかったのです。彼がただ一つ欲しかったのは、自分がすべてを捧げて従ってきた「マスター(恩師)の承認」だけだったからです。

「一意専心」がもたらす、圧倒的な自由

私たちが「二足のわらじ」を履いてしまうのは、劇場の「観客席」の反応を気にしてしまうからです。
「周りの人からどう思われるだろうか」「世間の常識から外れていないだろうか」「立派な人だと思われたい」。無数の観客の目を気にして生きる人生は、常に不安と緊張に満ち、決して心からの安らぎを得ることはできません。
しかし、イエス・キリストだけに「一意専心」する覚悟を決めた人は、数千人の観客の拍手(世間の評価)を求めることをやめ、ただ二階席におられる「マスター(主なる神)」のまなざしだけを見つめて生きるようになります。
世の中の人があなたを批判しようと、失敗を笑おうと、あるいは逆にあなたをおだて上げようと、心は揺るぎません。「私のマスターが、十字架の愛を通して『あなたは私の愛する子、それで良い』とうなずいてくださっているのだから、私はそれで十分だ」と、深い満足と平安に包まれるからです。

結び:重いわらじを脱ぎ捨てる

「一意専心の覚悟」とは、修行僧のように眉間にシワを寄せて、苦しい道を這いつくばって進むことではありません。
それは、私たちを縛り付け、疲れさせていた「世間」や「自己中心」という重いわらじを脱ぎ捨てることです。そして、私たちを誰よりも愛し、完全な恵みで受け止めてくださるキリストという「たった一人のマスター」のためだけに、人生のピアノを軽やかに、喜びに満ちて弾き始めることなのです。
あなたが今日、握りしめている「古いバー」から手を離し、ただキリストの愛のまなざしだけを見つめて歩み出すとき、その「一意専心」の歩みは、あなたにこの世の何ものにも代えがたい「真実の自由」をもたらしてくれるはずです。

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