【第36週 6日目】恐れから逃げ出す人間の弱さと、永遠の救いとなる「大祭司キリスト」の涙

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【第36週 6日目】恐れから逃げ出す人間の弱さと、永遠の救いとなる「大祭司キリスト」の涙

聖書通読第36週の6日目は、現実の脅威に疲れ果てて神様への信頼を手放してしまったダビデ(第一サムエル記27章)と、私たちの弱さを負い、永遠の救いの源となってくださった完全な大祭司イエス・キリスト(ヘブル人への手紙5章)について解説します。

【旧約聖書】第一サムエル記 27章 —— 限界を迎え、人間の知恵(敵国)へ逃げ込む

前章で「神様が裁いてくださる」と立派な信仰を見せたダビデでしたが、長引く逃亡生活に心身ともに疲れ果ててしまいます。彼の心に「このままでは、いつかサウルの手によって滅ぼされるだろう」という強い恐れが入り込みました。 ここでダビデは、神様に祈ることも、祭司に御心を尋ねることもせず、自分の命を守るために敵国であるペリシテ(ガトの王アキシュ)のもとへ亡命するという、人間的な解決策を自ら選んでしまいます。

【例え:嵐の中でナビの導き(神様の導き)を疑い、自分自身が納得できる(不信仰)近道へ飛び込む】

これは、嵐の中で先の見えない渋滞に巻き込まれ、疲れ果てたドライバーの姿に似ています。本来なら絶対に安全な目的地へ導いてくれる「車のナビ(神様への信頼)」の電源をバツンと切り、「もう待てない、とにかくこの状況から逃げ出したい」と、目の前に見えた自分が納得できる抜け道(人間の知恵)へとハンドルを切ってしまったのです。

どんなに偉大な信仰者であっても、神様の約束から目を離し、現実の脅威(サウル)にだけ心を奪われると、たちまち恐れに飲み込まれ、自分の肉の力に頼ってしまいます。

このダビデの失敗は、「人間の信仰や決心がいかに不完全でもろいか」という自力の限界を赤裸々に示しています。

新約聖書】ヘブル人への手紙 5章 —— 私たちの代わりに「完全な従順」を貫いた大祭司

旧約で「不信仰に陥る人間の弱さ」を見た後、新約のヘブル人への手紙5章では、そんな私たちを救うために立てられた永遠の「大祭司イエス・キリスト」の姿が鮮明に描かれます。

キリストは神の御子でありながら、人間としてこの世のいろいろな制限(時間、場所、人間としての肉体の弱さなど・・・)のうちを歩まれました。この地上におられた時、激しい涙と願いをもって祈りを捧げ、苦しみを通して従順を明らかにされました。そして、イエスキリストは、「わたしたちの裁かれて当然な罪すべて」をご自身で背負い身代わりに十字架で死んでくださいました。そして葬られ三日目にに復活されました。そして、ご自分を信じる信仰と主としてイエスキリストに従うすべての人にとって「永遠の救いの源」となられたのです。

私たちが自力で神様に従おうとすると、ダビデのように必ずどこかで恐れや妥協に負け、「赤点」を取ってしまいます。

しかしキリストは、私たちと同じ血と肉を持つ人間として完全な信仰をあらわし父なる神様の栄光をあらわしました。極限の苦しみ(十字架)を前にしても、逃げ出したり、人間の知恵に頼ったりしませんでした。ただ十字架への道を歩み、そしてわたしたちの罪の刑罰の裁きを一滴残らず完全に飲み干してくださいました。そのことを通して、父なる神様に100%の完全な従順を貫き死の力を打ち砕き甦られご自身が神の御子であり救い主であることの証明としてくださいました。

それらは神様の栄光をあらわすためでした。

私たちの救いの根拠は、「私たちが立派の信仰者のように強い信仰を保ち続けること」ではありません。キリストが私たちの罪の刑罰の身代わりとなって勝ち取ってくださった「完全に義なる立場(100点)」を、ただ恵みによって信仰によって受け取ることです。

そして私たちの信仰が揺らぎ、失敗してしまうような時でさえも、この永遠の大祭司が成し遂げてくださった「100%の完全な義なる救い」が揺らぐことは絶対にありません。

わたしたちクリスチャンは、イエスキリストの十字架と復活がわたしの罪のためであり、わたしを恐ろしい地獄から救い天国に入るものとしてくださるためであったことを喜び感謝します。たしかにイエスキリストの十字架と復活はわたしを愛する証しであります。

しかし、ただ決して忘れてはならないことは、イエスキリスト十字架と復活は、神様の栄光をあらわす為であったということです。そしてわたしたちが救われたのは、わたしたちをとおして神様の栄光をあらわされるためであったということです。

神様の栄光をあらわす者として創造されたわたしたちの造られた目的、存在する目的が達成されるためにわたしたちは救われたということを、決して忘れないようにしましょう。

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