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聖書通読:第16週5日目罪への怒りと、復活の愛。死を突き抜ける新しい命の始まり(民数記25章/ヨハネ20章)
タイトル:「罪への怒りと、復活の愛。死を突き抜ける新しい命の始まり」
聖書通読の第16週5日目は、人間の「罪の深さ」と、それを完全に打ち破る「復活の力」という、非常に鮮明な対比を見ることになります。
民数記25章では、誘惑に負けたイスラエルの姿と神の聖なる怒りが描かれ、
ヨハネ20章では、死を突き抜けてよみがえられた主イエスの圧倒的な希望が語られます。
この両極端とも言える二つの章を通して、神様が私たちに何を教え、どのような新しい歩みへと招いておられるのかを共に見ていきましょう。
1. 民数記25章:誘惑の罠と「聖なる情熱」
前章まで、預言者バラムはイスラエルを呪おうとして失敗し、祝福を口にしてきました。
しかし25章では、イスラエルが外側からの呪いではなく、内側からの「誘惑」によって自滅しかける悲劇が描かれます。
【解説:内側から崩れる恐ろしさ】
イスラエルの民はアカシヤにとどまっていた時、モアブの娘たちと淫らなことを行い、彼女たちの神々を拝んでしまいました。外側からの「呪い」には強かった民が、甘い「誘惑」と「妥協」によって、いとも簡単に神様を裏切ってしまったのです。
神様の怒りは燃え上がり、疫病が蔓延します。そんな最中、一人の男が平然と異邦人の女を連れてくるという傲慢な行動をとりました。それを見た祭司ピネハスは、神の聖さを守るために立ち上がり、罪を裁きました。このピネハスの「神の情熱(熱心)」によって神の怒りは収まり、イスラエルは全滅を免れました。
神様が罪に対して激しく怒るのは、私たちを憎んでいるからではありません。罪が私たちを滅ぼし、神様との命の関係を断ち切ってしまうからです。神様は、私たちが罪に対して無関心でいるのではなく、神様を第一とする「聖なる情熱」を持つことを求めておられます。
2. ヨハネ20章:空の墓と「名前を呼ぶ主」の復活
民数記の厳粛な裁きの場面から一転、ヨハネ20章では、人類史上最大の逆転劇である「主イエスの復活」が描かれます。
【解説:絶望を飲み込む喜びの再会】
週の初めの日、マグダラのマリアは墓が空であることを発見します。彼女は悲しみに暮れ、主の遺体が盗まれたと思い込み、泣き崩れていました。そんな彼女の背後から、よみがえられた主イエスが近づかれます。
当初、彼女は主であることに気づきません。しかし、主がただ一言、「マリア」と彼女の名前を呼ばれたとき、彼女のすべての悲しみは驚きと喜びに変わりました。主は、教理としてではなく、個人的にマリアを愛し、その名を知っておられる「甦られた生きた主」として現れてくださったのです。
その後、主は弟子たちの真ん中に現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。
疑いの中にいたトマスに対しても、主は彼を責めるのではなく、ご自分の傷跡を見せ、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と優しく導かれました。 民数記で示された「罪に対する死」という刑罰を、主イエスはご自身で引き受け、死を打ち破ってよみがえられました。これこそが、私たちが今、光の中を歩める唯一の理由です。
3. 神様が「望んでおられること」
今日の箇所を通して、神様が私たちに望んでおられることは何でしょうか。
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「妥協」の種を取り除くこと 民数記25章のイスラエルは、少しの「楽しみ」や「付き合い」から偶像礼拝へと転落しました。神様が望んでおられるのは、私たちの心に潜む、神様以外のものを第一にしてしまう「小さな妥協」に気づき、それを主の前に告白して、清めていただくことです。
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「復活の事実」の上に人生を築くこと 主イエスは今も生きておられます。これは単なるお話ではなく、歴史的な事実です。神様は、あなたが「死んだ宗教」を守るのではなく、「今も生きて語りかけてくださる主」と共に歩むことを望んでおられます。
4. 神様が「喜ばれること」
神様が今日、あなたの過ごし方の中で喜ばれるのはどのような姿でしょうか。
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「平安」を受け取って歩むこと 主が弟子たちに最初に言われたのは「平安があるように」でした。神様が喜ばれるのは、あなたが不安や罪悪感に押しつぶされるのではなく、主が復活して勝利されたという事実に安らぎ、今日という一日を平安のうちに過ごすことです。
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疑いの中でも「主よ」と呼びかけること トマスは疑いましたが、主は彼を拒みませんでした。神様が喜ばれるのは、あなたが自分の弱さや疑いを隠すことではなく、その正直な心のままで主の前に進み、「わが主、わが神よ」と告白することです。
今日の過ごし方への問いかけ
今日一日を過ごす中で、以下の三つの問いを心に留めてみてください。
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「わたしの心の中に、『モアブの娘たち』のような誘惑や妥協はありませんか?」 神様よりも大切にしている習慣、人との関係、あるいは執着しているもの。それらを一度、主の光の下に置いてみましょう。
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「今日、主はわたしの名前をどう呼んでおられますか?」 マグダラのマリアに呼びかけられたように、主はあなたの状況をすべて知った上で、愛を込めてあなたの名を呼んでいます。静かな時間を持って、その主の声に耳を傾けてみませんか。
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「目に見える絶望(空の墓)を、どう受け取りますか?」 マリアにとって空の墓は最初「絶望」でしたが、実は「最大の希望」の証拠でした。今、あなたの目の前にある「足りないもの」や「失われたもの」は、実は神様が新しい業をなさるための準備ではないでしょうか。
結び:
民数記25章の厳しい裁きは、神様がどれほど私たちを罪から引き離し、聖く保ちたいと願っておられるかを示しています。そしてその聖さを、私たち自身の力ではなく、イエス・キリストの復活の命によって成し遂げてくださったのがヨハネ20章です。
私たちはもはや、罪に負けるだけの存在ではありません。死に打ち勝たれた主が、今、あなたの隣におられます。 「平安が、あなたにあるように。」 この主の宣言を胸に、今日、聖なる情熱を持って、復活の光の中を歩み出しましょう。
主はよみがえられました。誠によみがえられました!
